IS MY THING

 愛し合った後、まだ汗も引かず二人でベッドに転がっているとき、それなのに梓が言った。
「結婚することにしました」
 瞬間、俺へのプロポーズかと思った。でも3分くらい間を置いて、念のため「誰と?」と尋ねると、梓は俺も何度か会ったことのある男友達の名を挙げた。
「………俺は?」
「結婚したら?それはもちろん、友達になろう」
 どうやら本気らしいと悟り、それでも未練がましく呟いてみた。
「…冗談だろ?」
「ううん」
 梓は裸のままベッドに正座して、ぺこりと頭を下げた。「ごめんなさい」
 しばらく黙った。自分でも分からないけれど多分少し怒っていた。
「……なんで?」
「うーん、聞きたい?」
「聞きたい。俺のこといやになった?」
「違う違う。進藤かわいいね。進藤が何かしたとかじゃないから安心して」
 梓は、開け放しの寝室のドアの向こうに視線を投げた。続くリビングには、一台のグランドピアノが、ひっそりと月光を浴びて黒く輝いていた。
「進藤は何もしてない。ずっと、会ったときから、碁が一番大事でそんなの当たり前だよね。私も一番はピアノです」
 波打つシーツに、梓は軽やかに指を動かした。
「でも私はわがままだから、私はピアノが一番でも、私のことは一番にしてくれなきゃやなの」
 だからごめんなさい。梓はもう一度頭を下げた。

 悪いことは重なる。ショックを引きずったまま翌日棋院に出ると、塔矢に「そろそろ頃合かと思って……結婚することにしたんだ」と告げられた。
 六月でもないのに、なぜかこういうことは続くらしい。
「そりゃ……おめでと」
「ありがとう」
 塔矢の彼女は俺も知っている。2年半くらい付き合っていた。塔矢らしい、無難な選択。
 おめでとう、と言いつつ腹がむかむかした。実はこいつが彼女と付き合い出したときも、たまにその話題が出るときも、俺はなぜかしらこっそりむかついていた。
「もう報告したのか?」
「両親にはね。他にはまだだよ」
 塔矢が結婚する。女と生活を共にする。思えば思うほど、むかついた。
「なんかむかつく」
「……は?」
 塔矢は綺麗な眉を少し寄せて首を傾げた。
「何がだ?先を越されて悔しいとかそういうこと?だって君は遊んでいる期間が長かったろう」
「ちげーよ。なんか、お前が人のもんになるのかと思ったら、…碁が疎かになりそうで…」
 塔矢は呆れたようだった。
「おかしなことを言うね。君、僕が今まで彼女に関することで碁に支障を来したことがあったか?」
「……ないけど」
 口ごもると、塔矢は呆れた顔から微妙に表情を変え、やがて堪え切れないといった様子で吹き出した。
「君は……なんだかたまに凄くかわいいね」

 こういうことが続くと、無性に寂しくなる。かわいいかわいくないに関係なく、誰だってそうだろ?
 俺は自分でも少し驚くくらいに凹んでいた。せめて塔矢以外のダチとかならまだ全然いい。だって塔矢だ。
 置いていかれたような? なんて言えばいいんだろう。とにかく塔矢だから……大打撃だった。
 情けないけれど、不安定は碁に直に影響して、俺は王座戦二次予選で無様に負けた。最近はリーグ戦まで残るのが当たり前みたいなものだっただけに悔しかった。塔矢は涼しげに、いくつもタイトル戦近くで戦っているんだから、一つくらい取りこぼすこともあるさ、と口にした。自分は今絶好調なものだから余裕だ。
 最近はもう、毎晩寝る前にこいつか梓のことを考えてしまって寝付きが悪い。誰のせいだ。
 どうしても眠れない夜、梓のマンションに行って抱いてもらった。
「塔矢が結婚するんだって」
 そう訴えた自分の声は我ながら哀れっぽくて、梓はよしよしと頭を撫でてくれた。
「なんで結婚なんかするんだよ。梓もだよ。寂しい?ピアノだけじゃ寂しい?ピアノは一人で弾くから、囲碁より寂しそうだ」
「進藤は馬鹿だねえ」
 梓は、死んだみたいに体を投げ出している俺をぽいっと捨てて、寝室を一度出た。追う気力もなく、スプリングのよくきいたベッドに俯せていると、音が聞こえてきた。梓のピアノだ。
 弦楽器は空気を震わせて管楽器は空気を突き抜けて、そしてピアノは空気にこぼれる音になる。繋がらない音が集まり、流れる旋律を奏で、俺はやっと一曲終わった後体を起こしてリビングに出た。
 長い指が鍵盤を撫でていた。白と黒を絶え間なく行き来し、梓はピアノとセックスしていた。寂しいはずがないとその姿は訴えていた。そして寂しくないはずがないと。一人では完成しないのにどこまでも一人だ。そんなふうに俺たちは、共にありながら孤独だった。
「囲碁から進藤を取り上げようと思うわけない」
 梓が言った。
「それに、塔矢くんからも。囲碁が一番大事ってことは、塔矢くんが誰よりも大事だっていうのと同じでしょう、進藤の場合」
「……俺が本当は塔矢を好きだって言ってんの?」
 梓は答えなかった。笑った。進藤はかわいいねとまた笑った。
「恋人だの友達だのライバルだの、当てはめた名前が大事なわけじゃないよ。恋人がいても誰より大事な友達がいたら、その人の一番は友達でしょう」

 そう梓に諭されてから、俺は思春期の青少年みたいに塔矢が気になって仕方無くなった。だけどもんもんしてるのは性に合わないから、ぶっちゃけ本人に聞いてみた。
 しばらく後に、塔矢との対局が予定されていて、その前哨戦にと碁会所を訪れた帰りだ。ラーメン屋に付き合わせたその後で、暗くなって人通りのない鉄橋付近で。
「キスしてみていい?」
 塔矢はつと眉根を寄せて、なぜ、と言った。
「それ以上がしたくなるかどうか試してみたいから」
 すると、少し怒った顔をして、だけど怒る代わりに小さく溜め息をついた。結婚を控えるような年になっても、塔矢の烈火はあんまり変わっていないから、怒ったのに怒らない、というのは珍しい。
「どうぞ?」
 伸長差があまりないから、近付くとぶつかりそうだった。軽く唇を触れ合わせ、ちゅっと音をたてて離れた。
 目を開けて気付いたけれど、塔矢はキスの間も目を閉じていなかったみたいだ。まじまじと、その顔を見つめた。
「確認できたかい?」
「……うん」
「どうだった?」
「……たぶん、何しても関係ないや。かわんねえ。……なんか、キスって感じじゃなかったな。なーんも……かわんねえじゃん…」
「僕はそんなことする前から分かってた。分からない君がバカなんだ」
「…梓が変なこと言うから悪いんだ。……言ったっけ、あいつ結婚するんだって。俺のが絶対イイオトコなのにさ。なーんのおもしろみもない平凡な男と」
「そんなふうに自惚れているからふられるんだよ、君は」
 塔矢は隠そうとしていたけれど、わずかに唇が震えていた。憎たらしいことに、おもしろそうに笑っていた。
「……笑うなよ。人が傷ついてるのに」
「ああすまない。残念だね、お似合いだったのに」
「だろ?!美男美女でまたとないカップルだったのにさー!」
「僕はそこまで言ってないよ」

 キス、したら分かると思ったのに。そういうことしたいのかどうか。好きなのかどうか。
 別に、したいわけじゃないことは分かった。だけど、好きなのかどうかはよく分からなかった。
 そもそも俺と塔矢に好き嫌いなんかないのだった。家族みたいなところがある。好き嫌いなんか気にしてられないくらい、一緒にいるのが自然な感じが。佐為と……同じだ。佐為について、好きだの嫌いだの思ったことはない。だけど失って、何にも替え難く大切なことに気付いた。失って、傷は癒えぬままそれに慣れ、時が経ち残ったのは愛しさと、懐かしさと、優しさと……
 あの頃の自分の幼さへの羞恥、そしてそれらが今自分の碁を支えている確信。
 梓とのことも、いずれはそうなるのだろう、きっと。だけど塔矢について、そんな想像はなぜかできなかった。
 押し倒す代わりに、打とうと誘った。
「今打ったばかりだろう」
「もっかい。俺んちかお前んちで。打とう?」
 恋人や友達への思いの根っこがそう変わらないように、セックスや対局への衝動も、人が思うほど違っているのではないらしい。誰かと繋がりたい?神様へ近付きたい?
 好き嫌いとか、いたわりや慈しみや優しさや憎しみ、血や体や書類一枚の繋がり、俺たちの関係はそんないろいろな物事の上辺を、さっと手で撫でるように掠めながら、それでいてそれらあらゆる事象と結び付かない。
 俺が初手を打つ。塔矢がそれに返す。その繰り返しの積み重ね。
 キスやセックスをしても何も変わらない。しなくても何の違いもない。今俺は塔矢を手にいれていて、そして俺自身塔矢のものだ。
 碁盤は宇宙。一つ一つの星々は孤独でありつつ総体。世界の有りように俺たちは身を寄せる。二人だけのために今存在する。
 愛ではなく、恋でもない。ただ俺たちはこんなふうに繋がっている。誰よりも深く。強く。
 俺は神様になる——塔矢と碁を打つ限り、俺はすべてを失いながら、そしてすべてを手に入れている。