Moonlight, Moonshine...

 今日くらいはと珍しく台所に立ち、二人分の食事を作った。自分の力量はよく分かっているから、簡単な料理を数品だけ。後は出来合い。それでも、出来上がる頃にはすっかり暗くなっていた。
「進藤、夕食」
 ドアは開け放たれたままだったので、部屋に踏み込みながらお愛想のノックを数回。
「進藤…」
 電気がついていないので、寝ているのかと思った。昼間は、幼馴染の藤崎あかりの元へ碁を打ちに行っていた。大事な対局の前には彼女と打って、ぴりぴりした気持を鎮めるのがジンクスなのだと笑っていた。へらへらと笑う、その彼を送り出す、こちらの気持はどうやって鎮めさせればいいのだろう。
 自分との対局の前日にも、彼は彼女のところへ赴く。ボクと打たないか、と誘うと、さすがに呆れられた。勝っても負けても、明日に差し障りがあると言って。
 窓から差し込む月の光と、街灯や隣のマンションの照明…。外からの明かりだけで彼は碁盤の前にいた。
 こういうときの彼には何を言っても無駄だ。聞えていない。何も。
 カーテンを閉めて電気をつけた方がいいかと迷った。
 たとえ自分が、彼のすぐ後ろを通って窓に近づいても、彼は気がつかないだろう。
 しかしもしこれが自分なら、何もしないで欲しいと思う。
 見ることさえせずに、そっとしておいて欲しいと思う。
 だから、どうすることが普通の判断か分からないままで、とりあえずカーテンを閉めには行かなかった。
 進藤は、棋譜を並べているようだったが、近くにはいつも通りゲームソフトや雑誌の類いが散らばっているだけだ。何より、一手一手考えながら打っていた。
 まるで、盤向こうの誰かと対局しているようだと思った。
 目は盤上に吸い寄せられる。秀策を思わせる布陣。他の何も関係なく打ちたくなった。しかし同時に、別世界にのめり込んでいる進藤を見るのは辛かった。自分だとて時に、独りで、その世界に足を踏み入れ、他の誰も…彼も…振り返らないときがある。
 月光の中に、居もしない対局者が見えるような気がした。
 その一局を見届けたい欲望を、もどかしさが上回り、リビングに戻ると一人で夕食を取った。
 翌朝目覚めると、いつのまにか彼の分の食事は消えていた。
「美味かったぜ、さんきゅ」
 そんなふうに、進藤は、狙ったわけでもないだろうが、出来合いのおかずだけを誉めた。
「塔矢、今日は見にくんの?」
「そうだね、行くよ。…ボクが見に行くんだから、あんまり無様な碁は打たないでくれよ」
「おいおい、プレッシャーかけるなよ」
 進藤はそう言いつつも、プレッシャーなどどこ吹く風、という具合だ。
「じゃぁ、帰りは車で一緒に帰ろう。先帰るなよ?」
 しかしやはりいつもとは違う。それを感じたのは、スーツ姿の彼が玄関先で靴を引っ掛けているときだ。
「……行って来ます」
 そう言ったときすでに、自分から視線は外れていた。同じようなことを、きっと自分も、先月のタイトル戦でしたのだと思う。だからよく分かる。分かる自分だから、こういう朝は一緒にいるのが辛いのだろう。
 藤崎さんのことが少し羨ましくなり、いやだからといって彼女になりたいわけではないと思い直す。
 寂しくはあるが自分は彼のために碁を捨てることは出来ない。
 彼もまた自分のためにそうすることは決してない。
 それが寂しくて……以下省略。
 ライバルにも恋人にも徹することが出来ない、そんな自分はどこか浅ましかった。


 進藤の対局。それを意識するだけで緊張するのは、いっそトラウマのようなものだと思う。以前、皆がまるで結託したかのように、自分にだけ彼の棋譜を教えてくれない時期があったから。
 一手一手進むにつれ、たまに呼吸を忘れ苦しくなった。
 特に左隅の攻防での、白の引き際が鮮やかだった。下がられたときには、自分なら絶対に強気に守ると思ったけれど、いざ黒番は数手で攻め場所に困り、その間中央で地を稼いだ。
 悔しい、悔しい、唇を噛んだ。自分が打っているわけではないのに…いやだからこそ、自分が打っていないことが心から悔しい。その場所を代われ。胸のうちで叫ぶ。どちらに言っているのか分からない。進藤に? 対局者に?
 どちらに嫉妬しているのか分からない。進藤の実力に? 彼の対局者に?
 両方か、両方だ。その場所を代われ、ボクと。
 ……進藤の中押し勝ちが決まると、控え室にいた棋士たちは一斉にため息をついた。求められるコメントに、必要最小限の答えを返していると、「まるで塔矢さんが打ち終わった後みたいな顔してますよ」と指摘された。
 不意に、自分がひどい思い違いをしているように感じた。
 たくさんの棋士や、記者たちに囲まれている進藤を遠目から見て、彼が、自分と戦うためにプロになったとなど、大変な誤解なのではないかと感じた。
「塔矢」
 進藤が明るく振り返って言った。「いい碁だったろ? なぁ、見に来てよかったろ、お前」
 憎しみにさえ近い思いを感じた。それはある意味懐かしい感情だった。いつのまにこの憎悪が、恋だの愛だの、そんな生ぬるいものに置き換わったというのか。無理矢理にそんな言葉で手懐け、飼い慣らそうと、無駄な努力をしていただけか。
 …そうすると、もしや彼も同じなのだろうか?
 彼も、自分を、憎んでいるのだろうか?
 それを想像すると、はっとする程心が凍り、自分はまた安易に安心する。やはり自分は彼を「好き」なのだと。
 しかしこんなのはまるで擬似恋愛だ。

 帰りは車で、と言われていたことを思い出し、進藤を待った。やはり手が空いたら自分も免許を取ろうと心に決める。あんな一局の後でさえ、彼に運転させるのはどう考えても筋違いだ。
「よっと……待たせた」
 結局彼が出てきたのは、夜空に星を探しかけた頃だった。
「疲れているようなら、電車で帰っても構わないけれど?」
「そっちのが余計疲れるよ。乗った乗った」
 助手席で、しばらく進藤の話に耳を傾けていた。倉田さんにつかまって話が長引いたとか、あそこのカケツギはどうだったとか…
 自分の中の、葛藤とも言い難い小さな循環を、どう告げるべきかそもそも人に言うようなものなのか、こちらは一人で迷っていた。
 どれが真実かというならどれも真実だ。
 ぼんやり車窓を眺めていて、気づくのが遅くなった。
「進藤?……帰るんじゃないのか? 道…」
「ちょっと、寄り道」
「どこへ?」
「巣鴨」
「巣鴨。……本妙寺?」
 本因坊というタイトル、秀策という名に対して、進藤が異様なほどのこだわりを持っているのは知っていた。以前、誰だったかが彼の碁を評して、「本因坊秀策の再来」とふざけたことがあった。言った誰かは、もしかすると本気だったのだ。しかし、進藤は怒った。不機嫌になったとかではなくて、怒った。
「なぜ? 光栄なことだろう?」 自分が後からそう聞くと、「分かってるよ」と彼は答えた。
「そう言われて素直に喜べない自分に腹が立つんだ。虎次郎は関係ない、これはオレの碁だって、進藤ヒカルの碁なんだって、どうしてもそう思っちまう自分に腹が立つ。…そんなに浅ましくなってまで、オレ、碁を打ちたいのかと思って…」
「よく分からない。打ちたいと思うことが浅ましいのか?」
「…大事なものを大事にするゆとりもないほど、打ちたいと思う自分は、さすがにどうだと……お前は、思わねぇ?」
 思うさ。思う。でも思いつつも碁を打ちつづける。打ちつづけながらキミをさえ捨てきれないのは…なるほど、浅ましい。
 しかし彼はまだここにいる。彼は、以前に「大事なもの」をなくしたことがあるのだろうか。
 月が出ていた。車を降りて、進藤の後をついていく。石畳に淡い影が伸びる。
 さて、月明かりに進藤という取り合わせは、果たしてどうなのだろうと思う。これ以上ないほど似合っていると言えないこともないような。馬鹿らしいと一笑に付すことも容易いが。
「…何をしに来たんだ?」
 進藤は、手を合わせるでもなく墓石を見詰めていた。
「歴代に挨拶回りか? それにしては少し気が早いんじゃないか?」
 明るめのグレーのスーツ。こんな姿が似合うようになったのはいつからだったろう。
 革靴の底を、進藤は意味もなく石段にこすりつける。
「……塔矢、昨日の夜オレの部屋に来た?」
「え? …ああ、」
「オレ、打ってたろ」
「打っていたね。あまり長くは見なかったけれど」
 それが何か? 墓石の上面を撫でるように、月光がさらさらと降り積もる。
「ずーっと前にさ、序盤で相手が消えちまって、そのままになってる一局があるんだ。その続きを、打てないかと思って、打ってた、昨日。…でもやっぱり無理だったよ」
「消えたって…」
「消えたんだ。いつのまにか。………いいな、このシチュエーション。夜の墓場で怪談」
 自分で茶化し、少しだけ笑って、進藤は俯いたまま、靴の底で石段を蹴り続けた。
「オレさ、そのときのあいつの顔も言葉も、何も覚えてないんだ。眠たかったし。ただ、石は、残ってたから……」
 彼の話す状況は、正直まったく想像つかなかった。しかし、その消えた対局者というのが、おそらくは以前彼の言っていた、「大事なもの」……なのだろう。
 己の、目指すもののために犠牲にした、大切な、何か。
 ふと、胸が焼けた。
「塔矢」
 強く静かな声で名前を呼ばれ、そんな嫉妬を見透かされた気分になった。居たたまれない。
「もし、もしもさ……お前、消えるとしたら、オレになんて言い残す?」
 しかし進藤は進藤で、切羽詰った瞳をしていた。寂しくも、無性におかしくなった。自分たちはいつも何かずれている。同じように碁を打っていても、多分、何かが全然、すれ違っている。
 それなのになぜ今も一緒にいられるのだろう。いや、だからこそ、なのか。
 逆方向に回る二つの歯車のようなものなのか。いつも喧嘩しながら…結局はいつも、同じ場所にいる。
「キミに? そうだな……」
 ゆっくり考えた。恨み言だろうか、呪いだろうか、藤崎さんと仲好く、とかそんな皮肉?
「そうだな…………………『キミと会えて、』………『キミと碁が打てて、』……」
 それでも、言葉は自然に唇から零れた。言いながら自分の心がほどけていくのを感じた。浅ましい自分と、浅ましい彼の上に、月の粒子が等しく感じられた。
「『楽しかった。』……かな」
 進藤は顔を上げて、元々大きな目をさらに丸く見開いた。それから、名前の通り、光り輝かんばかりに笑った。
「………塔矢、お前、最高。正真正銘の囲碁馬鹿野郎」
 腹を抱えて笑い出す。何がそんなにおかしいのか知らないけれど、終いには涙まで目に滲ませながら。
「ほんっと……そっか……そう来るんだ。…らしいよ。すっげぇ、らしい。なんでオレ、分かんなかったんだろう。あんなに一緒にいたのに。てっきり、もう、ずっと、憎まれてるかと、思ってた」
「……ボクの答えで誰の話をしてる?」
 憎まれているかと、そして憎んでいるかと思っていた。どきりとした。愛情と憎悪の、どこに線を引けばいいのか、きっとキミにだって分からない。
「ああ……悪い…」
 進藤は涙を手の甲で拭い、それだけで問いかけには答えなかった。
「家帰ったら、一局打とうぜ、塔矢」
「途中になっている続きはいいのか? ボクでよければお相手するけれど」
「いいんだ。サンキュ。……なぁ塔矢、オレ、お前のことすげぇ好きかも」
「……最高のシチュエーションだな、夜の墓場で…」
 愛の告白?

 違いない、と進藤はまた笑った。
 Moonlight,Moonshine...
 もし彼に月光が相応しいというならば、それはきっと誰が思うよりも逞しい、明日への光に違いない。