手の中の未来

 人生を変えられた——それもぐるりと大きく一変させられた時と場所といって、そんなものをそのときに自覚する人も稀であろう。
 自分の場合はもし問われたなら「祖父の蔵」であるが、それだとて当時そこまでの重要性を感じてはいなかった。
 あのときまでの、拙く、しかし堅実なはずだった人生設計は、今もう思い出すことも出来ない。

「え、塔矢って大学行くの?」
 驚いて素っ頓狂な声が出た。「もっと勉強したいのか? 変な奴ー」
「…いや、まだはっきりとは決めていない」
 カーペットの上、所在なげに正座して、彼にしては珍しく煮え切らない返事だった。
「視野を広げるのは大事だと思うんだ。どうしても囲碁に差し障りが出るようならそのとき止めることも出来るし…」
「ふーん。じゃあ行けば?」
 珍しく、本当に珍しく彼の方から話があるというから家にまで呼んで、何かと思えば、この自分に進路相談?
 ちゃらんぽらんにそう答えると、塔矢は、「いやまぁそうなんだけど…」とまた煮え切らないことを言う。
「何? それで何迷ってるんだ?」
 口に出して尋ねてから、あ、と気づいた。
 そうか、迷っているのだこいつは。
 突然嬉しくなった。塔矢アキラでも立ち止まることがあるのか。いつも銃口から飛び出した弾丸のように、真っ直ぐな奴なのに。
「……何を笑う?」
 塔矢が眉を寄せて言った。返答すると、眉間に皺が刻まれた。若いのに、そんな表情を癖にしてしまってはいけないと思う。させているのは自分だけれど。
「……ボクだって人間だよ。迷うことだってある。未熟者だしね。もっと精進して道を極められればいいけれど……なかなか、ね。昔からそうだ。プロ試験を受ける踏ん切りもかなり長くつかなかった。ああそうだ……」
 ふと表情を緩めて彼は苦笑した。「——そういえば、きっかけはキミだったね」
「何が?」
「中学囲碁大会の三将戦。あの後だ。やっと、その年にプロになることを決めた」
「………ああ、そう」
「キミは?」

 キミは?
 塔矢のさりげない一言になぜか詰まった。
 目の前に彼を置き彼の言葉を聞き、あの頃の彼の声が甦った。
(キミは真剣になったことがないの?)
 美しい一局だったと、もう逃げないと微笑んだ彼を思い出した。
 ふざけるなと激怒した彼の乱暴な打ち手を。
 最高に子供びた絶縁宣言を。
 そしてふと——佐為の名を呼んだ。心の中で。
 佐為。オレはお前に人生変えられた。
 オレは?
 オレはお前を変えることが出来たのだろうか。
 千年に比べれば、瞬きするような時間を共に過ごし。
 結果的に自分は…自分たちは二人、置き去りにされた子供だった。
 そこから、歩んできたのだ。

「オレは…まぁ、元々勉強嫌いだったし…」
 片手が自然と碁笥に伸び、中の黒石を掴んでは落とした。騒がしく石が鳴る。
「勉強が嫌いだからプロになったのか!?」
 途端に塔矢が険しい顔で噛み付いてきた。相変わらず、変わらない。思わず苦笑して、黒石一つ、碁盤に置いた。
 右上スミ小目。条件反射のように塔矢が白石をつまみ、打ち返してきた。
「コミは5目半な」
 言うと、塔矢はずりずり、正座のままで、碁盤の前に近づき位置を正した。
 しばらく無言で手を重ねた。
 大学なんて行きたいなら行けばいいと思った。迷うほどにも、お前の人生それで変えられることはないだろう。
 彼にとっての自分ほどに。また自分の中の彼ほどに。

 次に訪れる未来は、まだその二本の指の狭間にあった。