Millions Of Kisses

 クリスマスイブのデートは、夕食のときまでそれなりにうまくいっていた。囲碁以外の時間を二人でいると、平均して大体三時間に一回は喧嘩になる自分たちにしては、これは破格のいいムードだ。
 昼は懐石を食べた。塔矢の好みを尊重して予約して、支払いもこちらがした。混雑する街中は避けて、適当に時間を潰し、それからディナーの席を取っている洒落たイタリアンへ。我ながら細やかな心配りに感動する。塔矢は、いつものように気軽な、通りかかった小汚いラーメン屋にでも入るプランかと思っていたらしく、少し慌てていた。なんとなく見くびられていたようで小気味良い。高級ホテルの高級レストラン、とかではないけれど。そういう場所は服装にも気合がいるし。それに、ホテルの三文字に下心がありそうで避けた。過敏になりすぎだとは自覚している。
 君は車なのに、と遠慮する塔矢に、ワインを勧める。もうオーダーしたんだからな、ほらもう持ってこられたんだからお前飲め、と開き直ると、困ったようにグラスに口をつけた。
 デザートまでたいらげ、それじゃ行くか、と伝票を掴んだところで、塔矢が眉を寄せ「ここは僕が払う」と小声で主張した。こういうときも強引に行くに限る。いーからいーから、とわざと軽くいなして、カップルだらけのテーブル席を縫い歩く。塔矢は小走りで追いついてきた。
「昼は君持ちだったんだから今度はこっちが払う番だ。ワインだって僕だけ飲んだんだし」
「いいってば、今日は」
「よくない」
 伝票を奪おうとするのを避けて、「こんなとこで騒いじゃみっともないだろ。迷惑だ」と至極もっともそうに言う。酒のせいで塔矢は少し赤い顔で、だからそういう、とても簡単な状況判断が出来ないらしかった。
 結局さっさと支払いを済ませた。店の外で塔矢はマフラーを巻きなおし、白い息を吐きながら不機嫌そうに言った。
「せめて割り勘にしろ。それなら昼の分も」
「やだ」
「僕だって君に全額払わすのはいやだ」
「俺が奢るって言ってんだからいいじゃん。こないだだって、」
「あれは誕生日だったからだ。今日は奢られる理由がない」
 塔矢はしつこく言いつのるが、とりあえず車に乗り込み、車内のデジタル時計に目をやった。辺りはすっかり暗くなっていて、時計の文字は煌々と明かった。
「ちょっと車で流して、どっかでカウントダウンしよっか。それから送るよ。日付変わっちまうけど、少しくらいならいいだろ?」
 エンジンをかけ車を発進させる。それから、ルームミラーを動かす振りをして、塔矢の顔を少し窺った。塔矢はなんだかんだでまだ家を出ていない。今日は両親共に在宅だそうだから、あまり遅くなるのはよくない。今日、昼前に待ち合わせたとき、そう言っていた。留守なら、泊まっていくつもりだった。今までにも何度か泊まらせてもらった。一番最初は、あの北斗杯合宿のとき、社と一緒に。それからは一人で。二人でどこかへ出かけたりすることを、デートなんて言うようになってからも、数度。
 いつも決まって塔矢は自分の部屋で寝る。キスは何度もしたけれど、その他のバリエーションには至っていない。
 ミラーに映った塔矢の顔は、いつも通りに凛々しいというか。ああこれはやばい、と反射的にうんざりした。
「…構わないよな?」
「お金」
「しっつこいなぁ。あんまり金のことなんかにこだわるなよ。俺に失礼だぞ」
「君の言動は僕に失礼だ」
 空いた道に行くためには車線変更をしなくてはいけなかった。気づいたときにはもう遅くて、仕方なく直進。舌打ちして「かっわいくねーなー」とぼやいた。すると助手席の空気が音を立てて険しくなる。
「君に可愛がられるなんてごめんだからね。言っておくけど、君にオンナノコ扱いされるなんて更に真っ平だし、第一もし僕が女の子だったとしても、自分の食べた分くらい自分で払う。日ごろから経済格差を感じている相手とか、何か特別な理由があるならともかく」
「クリスマスに恋人にいいとこ見せたいってのは男の自然な心理だろ!?」
 イライラして、つい、普段は使わない名詞が口から零れた。折りしも車は高速沿いの、左右にラブホテル乱立する地帯に踏み込んだ。塔矢は一瞬絶句して、それからシートに深くもたれてため息をついた。
「同じことが僕にも当てはまることにどうして思い当たらないんだ、君は」
 …まったくどうでもいいことだけれど、どうしてラブホテルの名前というのはこう珍妙なものが多いのだろう。もし同乗しているのが和谷だったなら、それをネタにして盛り上がるのに。前を走っていた車が、左折して、そのうちの一つに入っていった。
 気まずくなってラジオをつける。定番のクリスマスソング。ラブホの物欲しそうなネオン。早くどこかで右折してしまおうと気が焦って、よく知らない細い道に迷い込んでしまった。来年にはカーナビが欲しい。とりあえず大通りに出るために、少し塔矢に地図を見てもらう。居場所はすぐに判明して、じゃあ真っ直ぐ行ったら交差点だな、などと一人ごちていたら、塔矢は地図をしまうとき、財布から取り出した数枚の札をそこに挟んでいた。
「おい」
「昼と夜の分を足したら、多すぎるということはないはずだよ」
「駄目。駄目だっての」
 運転しているときでなければ地団太を踏んでいるところだった。
「俺、クリスマスプレゼントとか用意してねぇもん。食事くらい奢らせろよ」
「…僕だってそんなもの用意してない」
 塔矢は必要以上にぶっきらぼうに言う。あ、やっぱりそうなんだそりゃそうだよな、と深く納得すると同時に、やっぱり少し残念だった。それが顔に出たらしい。塔矢は慌てて言い足した。
「そ、そういう間柄じゃないだろう」
 蛇足過ぎる。
 勿論、プレゼント交換とかするような、なぁなぁで甘ったるいカップル…なんて自分たちに似つかわしくないのはよく分かっている。
 そういう意味で塔矢が言ったのもよく分かったけれど、しかし意外にぐっさりと来た。
 イブではラジオのCMさえクリスマス試用だ。喧嘩売ってる。
 …そういう、間柄に、なりたくないわけじゃ。
 いや、やっぱり、想像するだに砂吐きそうな。
 でも、でもやっぱり。
「…どこかで時間潰すんじゃなかったのか」
 黙りこんでいると、隣で塔矢が呟いた。気がつくと塔矢邸へ向かう道だ。このまま行けばすぐ着いてしまう。
「…する。カウントダウン」
 また道をそれると塔矢は少し笑った。「子供みたいにこだわるんだな」
「…コドモだから」
 塔矢はまた笑った。


 知らない町の高台に止めた。錆付いて開かない、どこかのマンションの非常口前に陣取って、駅前の稚拙なイルミネーションを見下ろした。
 塔矢はどちらかというと寒がりだから、ぎゅっとコートの前をかき合わせた。抱きしめてやろうか、とか、そんな軽口は、はじめてのキスより以前の方が気安く言えた。ただ手を伸ばして、垂れ下がった塔矢のマフラーに少し触れた。
「時間、平気かな、お前。家に連絡した?」
「平気だよ。子供じゃないんだから」
「早く帰らなきゃって言ってたじゃん」
「…平気だよ。仕事で忙しいときはホテルを梯子してるくらいだ」
「今日は仕事じゃないじゃん」
「君に会うとは言ってある」
 思わず手を引いてしまった。まじまじ横顔を眺めていると、塔矢はアスファルトの段差に腰を下ろそうとして、やはり躊躇していた。育ちがいいから。
 だから先に座って、隣を空けてやった。そうすると塔矢はやっと腰を下ろした。視線が下がったから、イルミネーションさえ見えなくなった。冬枯れの木と植え込みくらいだ。何やってるんだろう。時計を見る。もうクリスマスだろうか。
 膝を抱えてみた。塔矢が隣で白い息を吐く。なんとなく体が触れ合う。
「…あまり遅くなるようなら、君のところに泊まらせて貰うと言ってある」
 塔矢が小さく、だけれどきっぱりと言った。…あはは、なんて、声を出して笑ってしまった。
「お前変わんねぇなぁ…」
 やりきれなくて膝に額を擦り付ける。「おっとこらしぃの…」
 それからもう一度笑おうとした。不甲斐ない男の小さな笑い声を、どこか遠くで上がった花火の音がそのとき打ち消した。
 クリスマスかな、と塔矢が静かに言った。
 顔を上げて彼を見ると、ごくごく近い距離から、彼も自分を見ていた。静電気が起きないように、指先ではなく腕から、そのコートに触れていった。そんな怯えた抱きしめ方にも何も言わない塔矢を、腕の中に確かに感じると、暖かいはずなのに背筋が震えた。
 塔矢は負けないように精一杯腕を回してくる。人と抱きしめ合うときに起こる、体の奥の鈍い疼きを必死で押さえ込んだ。それなのに、さっきの塔矢の台詞とか、左折していった前の車とか、そんな下らないことが頭をよぎる。
 耳元に塔矢の息遣いを感じて、少し体を離して、顔を近づけた。塔矢が目を閉じたのを確認するのと同時に自分も暗闇になって、合わせた唇が死ぬかと思うくらい気持ちよかった。肩を強く抱いて顔の角度を変えた。苦しげに開かれた唇から舌を入れても、まだ歯が邪魔だったけれど、もう噛み切られてもいいなんて思いで無理矢理差し入れた。塔矢の肩が跳ねて、負けじと舌が伸ばされる。触れ合わせると、現金なもので、さっきよりずっと気持ちいい。
 塔矢の舌をかわして、順序良く並ぶ歯列や、頬の内側や、上顎を舐めた。最初は、ねとついた感じが気持ち悪いとまで言っていたディープキス。キス程度で気持ち悪いなら他のことはどうなるんだ、おい。
 懸命に同じことをしようと伸ばされた舌を唇に挟んで強く吸って、それから離れると、漫画みたいに唾液が繋がった。まぶたを上げた塔矢がそれを目にして、なんとも複雑な顔をした。だからもう一度キスをして、濡れた唇を再度離した。
 塔矢の両手が、こちらのジャンバーをきつく握っていることに気づく。花火の音はもう聞こえない。クリスマス? それがどうした。
 キスで紅潮した塔矢の顔を、至近距離からじっと見つめる。抱きしめたままで。このまま自分のアパートまで、こいつをお持ち帰りしたらどうなるだろうと考える。馬鹿みたいに体だけ興奮しそうになる。塔矢もじっと自分を見ている。引くということをしない。古風な日本男児みたいな奴。

 …この世で一番大切な人間に。
 あの世を合わせたって、確実に五本の指に入る人間に。
 その人が大切に思う人たちみんなに、打ち明けられない秘密を抱えさせるのか。
 …なぜ二人がいいならそれでいいと言えない。
 だってそれじゃ駄目なんだ。
 二人には。
 互い以外に大切なものがある。


(佐為)



 体を押し返すと、冬の夜風が待ち構えていたように流れ込む。立ち上がり、腕を取って塔矢も立たせた。次のカウントダウンは正月だなぁ、と感想を述べる。
「……行こうぜ。風邪引く。送るよ」
「進藤」
 進藤。名前を呼ばれるとぐらつきそうになる。こいつは多分名前一つで自分を殺せる。
「進藤、僕は、…」
 今夜星の数をしたカップルたちと、自分たちは何も変わらない。
「塔矢」
 塔矢、オトナになったらセックスしよう。
 そう告げた自分の情けない顔が塔矢の目に映るのを見て、最後にもう一度だけ抱きしめた。
「……大人に、なったら…?」
 塔矢が、多分同じように情けない顔で、わずかに笑いながら繰り返した。
 抱きしめたままで頷いた。塔矢の小さな笑い声。
 互いの温もりさえまさぐり合えない自分たちは、それまでに何回喧嘩して、何回破局して、何回打ち合って、何度のキスを交わすのか。

 数え切れない、冬の夜空の星のように。