So Long For The World

 気がつくとベッドでぴんぴんしていた。いつのまに連絡が行ったものか、親とかあかりが周囲にいて、散々説教された。
 だから、バイクは、止めろって。
 ——じゃあ今度から車にすりゃいいんだろ、と言い返して、頭を引っ叩かれた。怪我人なのに。
 脱臼の痛みは気絶の間に消え失せていて、あとは捻挫とか。青痣、切り傷、その他こまかな。風呂に入ったら染みるだろうなぁと思う。
 一応精密検査しますよ、頭とか。医者は言うが、ヘルメットは最後までかぶっていたそうだし、咄嗟にかばった記憶もある。実際医者も説明の間退屈そうだった。
 運がよかったですね、同じような事故で死ぬ人だっているんだから。そんなふうに言われた。
 右折したとき、停車中のはずの対向車が突っ込んできたのだ。避けると、今度は電柱に前輪が乗り上げ転倒した。バイクはお釈迦だ。
 勿論その車が悪いのだけど、制限速度をオーバーしていた自分にも多少の非はあるらしい。めんどくさい話だと頭を掻く。検査結果が出るまで大事を取って入院らしい。
 あかりには泣かれた。おいおい。
 棋士会の会長さんという人も見舞いに来た。見舞いというか、うっすらと文句だった。素行不良だと。和谷や伊角さんも来てくれた。マンガ雑誌を持ってきてくれたのが嬉しかった。調子に乗って騒ぐと看護婦さんに叱られた。それでもめげずにいると、和谷に、「おまえ全然反省してねーのな」と突っ込まれた。
 事故った奴はも少し殊勝にしてるもんだぜ?
 いい加減友人知人も来尽くしたと思っていたところに塔矢が来た。
「よぉ、見舞い何?」
 そうふざけると、無言で、携帯用の碁盤を差し出された。そのまま一局打った。塔矢は何も言わない。
 16目半差で負けた。こんな大敗も珍しいが、検討もせずに塔矢は碁盤と碁石だけ置いて帰った。その後一人で、今の一局を並べ返してみて、塔矢がものすごく怒っていたことにやっと気付いた。

 退院のその足で町に出て、ラーメンを腹いっぱい詰め込んだ後、塔矢の碁会所に顔を出した。
 市河さんが「あら」と顔を輝かせた。心配してたのよ、大丈夫?
 あ、全然平気っす。どーもどーも。
 ぺこぺこしながら中を伺うが、あの特徴的な髪型は見えなかった。
 今日塔矢来るかなぁ?
 アキラくん? うーん、どうかしら…
 ちょっと待とうかな。奥借りまーす。
 置いてあった週刊碁をだらだら眺めていた。先週の手合いの結果とか。
 やがて市河さんの嬉しそうな声が聞えて、振り返ると塔矢がいた。
 我ながらぎこちない動作で手を上げて合図し、対局し検討もしてから一緒に碁会所を出た。塔矢は口数が少なく、だから喧嘩にもならなかった。
 目の前をバイクが高速で突っ切っていった。
「危ねぇと思う暇もなかったんだよ」
 口火を切っても塔矢は相槌一つ打たない。
「マジ危なかったんだなぁとか、全部後からだよ。ただそのとき一瞬ふわっとした。なんかこう、ふわっと。怖かったのかな、あれは。…意識はっきりしてからも改めて怖かったし、すげぇびっくりした。ものすごくびっくりした。あかりに泣かれたしさ。かーさんとかもすっげぇ安心した顔してんの。ああオレ無事でよかったなって思ったら、なんか腹のあたりがおかしくなって、なんだろこれって思ってたらお前が来た」
 碁会所にいる間に日は沈んでいた。町は明るい。電光掲示板が今日のニュースを流す。
「お前見てたら分かった。オレも、怒ってんだなって」
「…何に?」
 塔矢がようやく口を開いた。低い声だった。
「ボクはキミの短慮に腹が立ってたまらない。それでキミは何に対して怒ってるっていうんだ?」
「……うん、」
 うん。しばらくその後を続けられなかった。自分が黙っている間、塔矢は何も言わなかった。ただひたすらに怒っていた。怒鳴りさえせずに。ひたすら。
「………未練。ありまくりなままでも、死ねるんだなぁって思って」
「全然、こっちにそのつもりなくても、何の覚悟もなしに、本当に唐突に、消えたり、なくしたり、するんだなって」
「……させられ、ちまうんだなって」
 だから。
「だから、お前が怒るのは、正しい」

 普通なら、次第に、怒りでは何も変えられないと知るごとに、慣れていく。諦めてしまう。
 自分は泣いた。本当に失ったのだと気付いたときには号泣した。
 だけどお前は、そんな理不尽さに対して、怒るんだ。
 神様相手にしたって臆さずに、そうだ自分も今なら怒ると思う。
 別れは、いつだって理不尽過ぎる力だから。

「……進藤、キミは問題をすり替えようとしていないか? ボクが問いただしたいのはまず第一にキミの自覚のなさだ。無論状況を聞くと今回は相手が全面的に悪いらしいが次もそうとは限らないんだぞ? それに万が一キミが今言ったような事態になっていたとしたら、」
 そこで塔矢は言葉を詰まらせた。
 すかさず言った。
「ごめん」
 ごめん。
「いっぱい、ごめん。手合い休ませちまってごめん。しかも昇段かかってたんだよな? 連勝記録も、」
 週刊碁の戦績の欄に見た「不戦敗」の三文字は、幼なじみの涙と両親の安堵の顔と、同じような種類で胸を打った。
「……そんなことに怒ってるわけじゃない」
「……………うん。心配。かけてごめん」
 塔矢は俯いて息を吐き出し、随分長いこと沈黙した後でぼそぼそと言った。
「……まぁ、何より、キミが、無事でよかった…」
「………うん」

 見上げるとネオンの向こうに群青の夜空があった。更にその向こうにいるかもしれない——いないかもしれない——佐為へ、胸のうちで祈ってみた。

 佐為、なぁ、神様に言っといてくれよ。
 オレからこいつを奪っていかないでくださいって。
 こいつだけじゃなく、オレの大切な人たちをみんな。
 唐突に、嵐のように無慈悲に。
 そんなのはお前だけで充分だから。
 奪わないで下さい。
 もしまたそんなことがあれば、今度こそオレは泣く前に怒る。
 天を睨みつけて地を踏みしきりオレは怒る。
 あらん限りの無力を込めて。

 きっと、オレは怒る。