Lip Edge Service

 スポーツドリンクのボトルに手を伸ばすために起き上がった。汗の引かない背中に、薄っぺらいホテルのシーツが張り付いてくるが、ベッドに横たわるもう一人の体に巻き込まれたようで、やがてそれは離れた。すっとした外気を感じる。枕元に置いていた清涼飲料水を飲んでいると、塔矢も起き上がってきた。小さくほっと、息を吐く音が熱い。肩に手がかかったと思うと、背中全体にのしかかった塔矢が「僕も」と手を伸ばした。
 右肩に、荒れた名残の吐息。首筋に滑る彼の髪。ボトルを差し出すと、受け取らずにそのまま肩越しに口をつけた。華奢な両手がこちらの両肩にぺったりと当てられ、互いに衣服をつけないときだけの、生き物のむっとした熱をすぐ後ろに感じる。
 喉が鳴る。水が動く。「ん」、という一言で、塔矢はもう一度息を吐いた。ボトルに蓋をして、サイドテーブルに置きなおす。その動作の間に塔矢は、こつんと、額を背中に押し付けた。背骨のあたりにぶつかった息が皮膚を湿らすのが分かった。それから追って、急に、ひやりとしたやわらかい唇が肌に触れた。水に冷やされた、そこだけ清清しい温度になった、粘膜がわずかに動く。言葉を言いかけたようでただ呼吸のための動き。
 背中の真ん中を、上から下へ、唇はゆっくり滑っていった。移動する冷たさと息の熱さに、ああ食いたいなぁと無性に思った。そのセクシャルな有様とは裏腹に、放っておくとこの背中の上で、塔矢は眠りに攫われそうだった。ゆっくりと、落ち着いていく呼吸のリズム。それから増していく頭の重み。
「変な体勢で寝たら筋肉痛になるよ」
「…ん、」
 惜しかったけれど、そっと体の向きを変えた。支えをなくしてずるりと崩れ落ちる彼の体を抱きとめて、いつもながらの薄さに劣情刺激されながら、嫌がらず応じもしないその唇にキスをした。水の冷たさはそろそろ熱に呑まれて。水分を飛ばした後の粘膜は、補給の前より乾きつつあった。端が、小さく切れていた。舐めるとうっすらと、血の味がした。



 北風の強い日だった。塔矢は待ち合わせの時間を大幅に超えて碁会所に駆け込んできた。珍しくコートの前を閉じていないとか、マフラーの端が変な方向に飛んでいたりとか、呼吸が荒れて弾んでいるとか、そのあたりの焦りっぷりを隠しもしないのが彼らしくて、遅刻に対して言おうと思っていた非難の台詞を全部忘れてしまった。
「すまない、遅れた」
 マフラーを取り、コートを脱ぎながら塔矢は向かいの椅子に腰掛けた。事情説明はなくて、言い訳より潔い謝罪だけだった。後から市河さんが、コート、マフラーとカバンをわざわざ引き取りにやってきた。預ける時間さえ惜しかったようで、カバンを手渡す塔矢は少し照れているようにも見えた。
 とりあえず打ち始めた。対局中、特に塔矢との対局中は、碁盤にしか集中しないのが常なのに、なぜかそのときは違った。相手の打ち手考慮中、なぜか、ちらちらとその顔を窺ってしまう。頬はうっすらと上気していた。それが、温まりきっていないからなのか、それとも逆に、走ってきて熱を持っているからなのか、少し知りたかった。そして唇が切れていた。
 乾燥してかさついているのが、見ればすぐ分かった。乾いて、乾いて、少し捲れた粘膜が、唇のふくらみに沿って血の赤を見せていた。
 見ているだけだった。もちろんそれを眺めているだけだった。不意に塔矢が顔を上げた。いつもの厳しい眼差しだった。以前一度だけ、自分たちの対局を収めた映像を目にする機会があり、そのとき、彼が自分をあんまりに見ていることを知って驚いたものだった。自分は普段碁盤しか見ない。だから、対局中に目が合ったのはそれが初めてだったかもしれない。
 剣呑な、鋭い眼差しで顔を上げた塔矢は、視線がぶつかったことに驚いた顔をした。
 それから、きっと理由なく、微笑んだ。
 形を変えたことで唇の裂け目が歪んで、あっという間もなく血の滲みは色を増した。さすがに自分でも感じたのだろう、塔矢は口元に手を当てて少し俯き、痛みに顔をしかめた。
 碁打ちとしての真摯な眼差しから、微笑みに至る彼の表情の変化の間、なぜか唇に視点が定まり、血の赤が頭のどこか一部を染めるように衝撃的だった。
 食欲にも似た初めての衝動。その正体を、その日の夜ベッドの中で遅まきながら理解した。



 散々吸った後の唇は紅でも引いたように赤く扇情的だった。しつこいくらいのキスに、眠気も飛んだらしい、塔矢の手は意図的に肩を掴む。
「…口にぶち込みたい」
 掠れた声で欲望を告げると、塔矢は「苦しいのは嫌だ」と首を振った。
「下より痛くないだろ?」
「誰のせいだ。いつまでたっても上手くならない」
 酷い言葉に腹が立った。無理やり押さえつけてやろうとか、時に思ってしまうのは、自分に暴力的嗜好があるからではないはずだ。
「…横になってじっとしてろ。動かないと約束するなら銜えてやってもいいよ」
 優しく押し倒されて、そっと手を添えられた。
 目を閉じる。少しだけ兆し始めたその部分に、息が。
「やっぱ、いい」
 肩を押し返すのが一瞬遅れたら、飲み込まれていた。
「なぜ?」
「もっかいキスしたい」
 自分のムスコと間接キスはやだから。と。
 腰抱き寄せて上に乗せたまま、その唇を食らった。大事にしたいのか、隙間からこじ開けて血を流させたいのか、情動は時にひどく卑猥に生々しい。
「…キスが好きだね」
 息継ぎの合間、塔矢がわずかに微笑んだ。ざらついて割れた唇の赤に、形変える毎傷つきながらも愛してる。
「……うん…。好きなんだ」
 舐めると余計干からびるのは分かっていても、この唾液でこの舌で、潤さずにはいられない。唇。

 舌先に感じる赤い体液の味に、さらに深く、飲み込まれて。