リミテッド

 携帯に電話がかかってきた。都内の知らない番号だった。一瞬出ようか迷って、結局繋げた。すると、三度ほどスニーカーを購入したことのある近所の靴屋だった。
「最近いかがですか? 夏の新商品ぞくぞく入荷してるんで、ぜひ見に来てください」
 そういえば、前回買ったとき、名前とか書いてきたっけかな、と思い出す。親しげな男の声は、適度な押し付けがましさと爽やかさで、電話は一分もかからず切れた。営業って、大変なんだなと思った。
 足元を見下ろす。連日履き続けている某ブランドのスニーカーは、経験からして後半月ほどはもつだろう。でも、確かに、ぼろぼろだった。
 靴屋といって、その店には革靴やらサンダルはほとんど置いていない。スポーツシューズと、それから各種スポーツ用品が並ぶ。だけども店名はちゃっかり○○靴店なので、やっぱり靴屋なのだと思っている。そういう店だ。
 前に行ったとき、軒先で幅を利かせていたのはスノーボードだった。今はマリン系のあれやこれやが、華美な色彩で店内を照らす。
「ども。近くいたんで」
 電話を貰って十五分後には着いてしまった。驚かれた。だけどもすぐに店員は満面の笑みを浮かべ、新しいスニーカーをお勧めしてくれた。ちょっと最近になって窮屈になった気がすると告げると、サイズを測ってくれた。二センチくらい大きめでもいいと言われ、今度はこっちが驚かされた。
 大き目のサイズを試着する。つま先が動いて気持ちいい。お気に入りのブランドは決まっているから、いくつかすぐに目星をつける。
「あ、これ。さすが目が高いっすね。この夏限定商品なんですよ。今朝入ってきたばかりで」
「ふうん」
 やっと最近になって一人で、自分の金で、買い物することの方が多くなった。だからか、店員との距離が掴みにくくて気のないような相槌になってしまった。
「こういう勧め方あんまり好きじゃないんすけど、多分今逃せば手に入らないかな。もういろんな店で売り切れ続出なんで」
「へえ…かっこいいな」
「早速ネットオークションとかにも高値で出回ってねー、かなりアレなんすけど。靴ですからね、せっかくなら履き潰すくらい履き回して最後はポイでいいだろって俺なんかは思います」
 別に普段取り立てて「限定」モノに弱いわけではなかったけれど、ただ単にそのスニーカーが気に入ったから、それを買った。値段の方もさすが限定だった。

 翌日、下ろし立てのスニーカーで外出した。和谷の家での研究会だった。玄関に、いつもよりは多少丁寧に脱いだ靴を見て、何人かが目ざとく「おにゅーだ」と指摘した。
「この夏限定品なんだって」
「進藤、限定に弱いタイプかー」
「別に。気に入ったからだよ」
 つい先日、新本因坊を誕生させた本因坊戦第四局の棋譜を検討していると、携帯電話が鳴った。皆に軽く謝りながら、鞄から取り出す。表示を見て一瞬固まる。珍しい。塔矢からだった。
「もしもし?」
「…進藤か」
「そうだけど。何。何か用?」
「……今、どこにいる?」
「和谷んちだけど?」  何となく、新しい靴をつっかけて、和矢の部屋からアパートの廊下に出た。
「……」
「だから何なんだって」
 用も無く電話をかけてくるとかありえない。向こうも屋外らしかった。そういう音が聞こえる。
「…いや、すまない。…棋院から帰る途中なんだけど、急に、…歩けなくなってね。弱ったよ。市河さんにも芦原さんにも電話が通じなくて」
 少し息苦しそうに塔矢は言い訳した。
「…今どこ」
 塔矢は地下鉄の駅の名を告げた。近かった。「別に、たいしたことはないんだよ。最近少し夏ばて気味で、そこに電車の冷房が、」
 物凄く不本意そうだった。いいから、と言葉を遮って、和矢の部屋に戻ると荷物を持ってそこに向かった。
「…すまない」
 ホームのベンチに、塔矢はぐったりと座り込んでいた。何だかレアで思わずまじまじ見てしまうと、嫌そうな顔をした。
「夕方には父母が帰宅するんだ。それまでに帰りたくて。すまないがタクシーをつかまえて欲しい」
 口調は、普段より多少ゆっくりだったけれど、しっかりしていた。
「元気そうじゃん」
「休んでいたから。ましになったよ」
「そのへんの人に頼んでもよかったんじゃないの。駅員さんとかさ」
 塔矢は黙った。少し支えてやって、駅を出た。階段で一度よろめいた塔矢に、新品の靴をしたたかに踏まれた。
「お前って身体弱いの?」
「そんなわけない」
「だよな」
 一度風邪を引いて塔矢との約束をキャンセルしたとき、棋士は身体が資本・君はナマってる・僕なんか毎日…とかくどくど説教されたものだった。今が丁度そのお返しをするときだと思ったけれど、タクシーの中で目を閉じ、身体を預けてきた塔矢が珍しくて、言わないでおいてやった。
 塔矢の家についたとき、丁度家の電話が鳴っていた。電話は玄関先にあったので、代わりに取ってやらなくて済んだ。
 塔矢は電話口で、うん、うん、とあどけなく頷いていた。お母さんなのだろうと分かった。
「あと三十分くらいで帰宅するって。間に合ってよかった」
「それまで寝てれば?」
 提案すると塔矢は迷った。要するに、両親いなくて体調崩したとか思われたくないらしかった。
「十分前に起こしてやるよ」
「君が優しいと気持ち悪い」
「ああ!?」
「失礼。助かるよ」
 塔矢は簡単に布団を敷いて、一旦消えるとシャツとスラックスだけになって戻ってきた。
「皺になるぜ」
「ん、」
 億劫そうに生返事して布団に潜り込んだ。「隣の部屋に碁盤と、見るなら本もたくさんあるよ。一般では珍しい棋譜とかもあるから…父の蔵書だけどね…好きに見ていいよ」
「おう」
 それはもちろん、塔矢の寝顔を見て面白いことも何もないから、言われた通り棋譜を眺めて時間を潰した。
 十分と少し前になって、そっと隣の部屋を覗いた。正直言って、起こしてやらなくてもいいかなと思っていた。深い眠りを中途半端に遮るのは好ましくない。
 近づいてみると、眠る塔矢の顔は青白かった。この暑いのに、布団をしっかり被っていた。意外にまつげが長くてびっくりした。ふうん、と思った。
 時計を見た。十分前になっていた。目をやった瞬間また針が動いて、九分前になっていた。
 息をしているか確認しようと、手を口元に近づけてみた。軽く握った拳の、甲の側に、ささやかな吐息を感じた。その場所で手のひらを解くと、人差し指の付け根あたりに、唇が当たった。
「……」
 息が震えた。喉の奥の方で小さな声を出して、塔矢のまぶたがゆっくり開いた。
「…じかん、」
 あどけない言い方だった。
「うん。そろそろ」
「……ありがとう」
「うん、じゃあ俺帰る」
 言い捨ててさっと立ち上がって玄関に行った。脱ぎ捨てられたスニーカーは、塔矢に踏まれたところ、黒くなっていた。
 その汚れに、愛想のいい店員の言葉を思い出した。
 今朝入ってきたばかりの限定品。
 今を逃せば、もう手に入れられないよ。
 踵を返した。塔矢の家の廊下は、綺麗に掃除されていて、靴下が滑りそうになった。走って、すぐ部屋に着いた。
 布団を押入れにしまっていた塔矢は、驚いて振り返った。近づいて、「俺」と言った。何か言いかけた。
「忘れ物か?」
 時計を見る暇もなかった。表の方で、車が停まる音がしたのだ。
「俺、お前を、」
 玄関ブザーが鳴った。塔矢ははっと顔を上げる。その顔を両手で挟んでキスした。塔矢は分かりやすく硬直した。扉が開く。ただいまという塔矢のお母さんの声。
 唇を、不器用に吸って身体を離した。また、だだだって感じに玄関まで走った。
「あら、進藤くん」
「お邪魔してました! おかえりなさい! じゃあ、あの、さよなら!」
 新しい靴を爪先に引っ掛けて外に出た。塔矢先生が驚いて立ち止まるところ、慌てて何度も会釈して、その横を走り抜けた。角を曲がったくらいで、倒れそうになって電柱に手をついた。息が荒いのを確かめながら、スニーカーをちゃんと、履く。
 拳を口元に、残る感触を今更味わって、苦笑なんだかよく分からない笑い声が、零れた。