怪盗ヒカル〜エメラルドの秘宝を追え!〜(仮)

平日午後の人気のない美術館で、あかりは何度も腕時計に目をやった。この仕事が引ける時間まで…彼との待ち合わせの時間まで…
柔らかな水彩画に囲まれて一日ぼんやり過ごす仕事をもちろん嫌いではないのだが、今日は別だ。気もそぞろに立っては座りを繰り返していると、そんなあかりを咎めるかのようなタイミングで一人の客が現れた。
(いけない。ちゃんとお仕事しなきゃ)
求められれば、一つ一つの作品について簡単なうんちくを述べる、また、小さな子どもや不貞のやからが作品を傷付けないか監視する。
しかし、どうだろう。今回の客は、どちらかといえば後者に注意すべきだろうか。黒いレザーの上下にサングラス。前髪だけを金髪にし、スカルモチーフのウォレットチェーンが腰から垂れ下がっている。まだ若い、あかりと同い年くらいの、そしてあまりこんなところには来そうにない、青年だ。
(…かっこいいかもしれないなあ…)
じろじろ見ないように気を付けながら、私服で会いたかったと少し残念に思った。サングラスをかけていてもハンサムオーラは伝わるものだ。あかりはこういう、不良っぽいテイストに弱い。
(ダメダメっ。今日は三谷くんと会う日なのに!)
自分を叱咤するあかりには目もくれず、青年はゆっくり展示室を歩き、やがて一枚の絵画の前で足を止めた。
あかりの一番好きな絵だった。それはまた、この小さな美術館で一番価値のあるものでもあった。豊かな緑を蓄えた森と湖、そして白いドレスの少女。ロマンティックすぎると敬遠されてもおかしくないモチーフだが。
もしかして、美術系の専門学生か何かなのだろうか。好意度がさらに上増しされ、あかりは少しだけ彼に近寄った。
「綺麗だね」
青年が話しかけてきた。意外に高めの、無邪気で可愛らしい声だった。年下かもしれない。
「綺麗ね。これはこの画家の代表作なの」
敬語を使わないことにした。続けて画家のプロフィールを説明しかけると、「知ってるよ」と遮られた。
「学生さんなの?」
「うん。M大の美学部」
「へえ。凄いね」
お世辞ではなく感嘆すると、青年はやっとサングラスを外しにこっと笑った。大きな目。可愛らしい顔立ちに、わずかな憂いにも似た色気と。
「授業でちらっと出てきたんだ。この女の子幽霊なんだろ?」
「それは分からないわ。…見える?」
あかりは絵の左下隅を指差した。最近になって、描かれた湖の波紋に、その白いあぶくの中に、もう一つの意図が発見されたのだ。
「…うん」
騙し絵のように。そしてひどく巧妙な作為のもとに、湖に沈む白骨はしかし確かに認識できた。長い髪を緑の水の中に引きずった頭蓋骨。
「これが、白いドレスの少女の本当の姿だとはよく言われるけど、真実は分からない」
何にせよ、牧歌的な印象が一変することだけは明らかだ。
「行きずりの死体なだけかもしんないし、この子が殺したのかもな」
青年はさして愉快そうでもない口ぶりだった。
「てか、この白い子、男かもよ。恋人を殺してその恋人の服着て逃げていくところかも。チジョウノモツレ」
「どこからそんな発想出てくるの?」
あかりは呆れて彼を見上げ、そしていつのまにか詰められた二人の距離に心臓が跳ねた。
サングラスを持たない方の手を、レザーパンツのポケットからゆっくり出して、青年はあかりの髪にわずかに触れた。
静寂。あかりは思わず、防犯用の隠しカメラがあるはずの場所に視線を向けて、二歩後ずさった。ヒールの音が響いた。
「………ほこり、ついてたよ」
青年はサングラスをかけ直し、笑ったようだった。「じゃあね」
その腰でドクロの鎖がじゃらりと鳴った。


「女ったらしのご帰還だな」
進藤ヒカルはそんな声で迎えられた。靴を脱ぐスペースだけでいっそ生活できそうな、いやみたらしい豪華なマンションだ。
「…やめてよ緒方さん。それやだ」
ヒカルはささやかな仕返として、履き慣れない黒い紐靴を脱ぎ散らかした。
「じゃあ色男」
「それ自分のこと言ってない?」
緒方を押し退け、廊下を歩きながら通気性の悪い革ジャンを脱ぐ。リビングのソファにそれを放り、ズボンもジーンズに履き替えた。サングラスをサイドテーブルに置く。
「あー、肩凝った!」
ソファに体を埋める様子を、緒方が愉快そうに眺めていた。
「あのまま落とせたろうに。欲のない」
「欲ならあるけどさあ。緒方先生ああいうのが好みなの?」
「お前には似合いだろう」
「俺は湖の骸骨のがいいよ。でもさあ、下見くらいならやるけど、本番は俺やだよ。大物は俺専門じゃないしあの絵も趣味じゃないし。和谷いるでしょ?」
「あいつは今別件で登別」
「…貧乏暇なし。いつの新聞に載るの?連続しちゃうからやっぱ俺やだ」
「“sai”」
緒方が、チェストに置かれた水槽を見て、何気無く口にした。「…の、ために頑張るんだろう?」 ヒカルに視線を移し口許だけで笑う。
「……気安く呼ぶな」
「失礼」
「…頑張るよ。頑張るけどさあ…」
ヒカルはまた子どもっぽく唇を尖らせてみせた。
「でもやっぱ色仕掛けはもうやだ。俺にだって好きなコくらいいるんだからさ!」

マンションのエントランスを出ると、途端に細かい雨粒が頬に当たり、ヒカルは舌打ちをして駆け出した。打ち合わせが長引きすぎた。しかし絵画はそもそも守備範囲外なのだから、念には念を入れて置かねば、こう見えてヒカルは気が小さいところもある。
地下鉄を乗り継ぐ。今はもう緩めのジーパン、白いTシャツにボーダーの七分袖シャツを重ねたいつものスタイルだ。足元はスニーカー。チェーンも自前のダイスのもの。
地上に続く階段を駆け上がると、紺色の大きな傘の下に待ち合わせの相手がいた。
「進藤、また遅刻か!?」
「わりぃわりぃ。駅ん中でいてくれてよかったのに」
塔矢アキラは、高校の制服である白い学ランの肩を少し濡らしていた。
「地下だと携帯が通じないじゃないか。君、いつもどういう経路で来るかわからないから」
秘密主義を自認するヒカルとしては言い返せない。アキラの肩を少しはたいてやった。
「遅れて悪かったよ。どっか入ろうぜ。俺傘持ってねえよ」
「…風邪を引くぞ」
アキラが傘の下のスペースを半分与えてくれるので、ありがたく、目についた喫茶店まで二人で並んで歩いた。
「君に見て欲しい一局があるんだよ。先週の僕の王座戦予選なんだけど」
「…一月ぶりに会って真っ先に碁の話題かあ」
「他に君と何を話すんだ?僕は君が毎日何をして過ごしているかも知らないぞ」
喫茶店の軒先でアキラが傘を畳む。ヒカルは先にドアを押し、カウンタからの明るい声に「二人」と答えた。
「俺が趣味や家族構成や好きなタレントの話すりゃお前も話してくれんの?」
メニューを広げて笑うと、アキラは難しそうな顔をした。
「…その話題では僕が不利だな。悪かった。やはり君の打つ碁が君のすべてだ。…それでその手合いなんだけど…」
「……塔矢、とりあえず先に注文しようぜ?」

アキラとは、ふらりと立ち寄った碁会所で出会った。プロである彼と互戦で対局し、時間が足りず終局まで打ちきれなかった。あの続きこそ打ってはいないが、それからしばしば対局をしたり碁について意見を交す間柄になった。
(…交したいのはそれだけじゃねえんだけどなー…っ)
実は一目惚れならぬ一局惚れだったりする。
「なぜだ? 三子奪う気ならなおさらこっちの方がよくないか?」
「でもさあ、なんかやなんだよそれ。がつがつしてるっていうかさあ」
「僕に分かるように話せ」
それなのになぜいつまでたっても、携帯用碁盤を挟んで討論する関係から進めないのか、たまにヒカルは頭を抱えたくなる。
(…この碁馬鹿相手じゃ仕方ねえのかなあ…。…まあ、俺も俺だしな…)
検討が白熱し、アキラの声が次第に大きくなるのを抑える。どこであろうとあまり目立ちたくない。喫茶店に流れるFMラジオよりは、小さく、小さく。
「…ニューススクエア…D百貨店S…で、25日まで…アンティークの……展示会が行われます。目玉はイタリアD博物館より貸し出し…エメラルドの………」
ヒカルの携帯が明るく平和なメロディを奏で出した。目覚めよと呼ぶ声あり。碁盤から視線をあげたアキラが、ほんの少し寂しそうに見えたのは錯覚だろうか。この着信があると、どんな名局の途中だろうとヒカルは席を立ち帰ってこない。緒方からの着信だった。


永遠に続くかと思われた聞き込みからやっと解放され、スタッフオンリーの扉の向こうに三谷を見たとき、あかりは泣きそうになった。
「三谷くん、来てくれたんだ」
「別に。通りかかっただけ。何かあったのか?」
「え…ううん…ごめん、まだ言えないの…」
都心の百貨店で 展示されているアンティークのエメラルド・ティアラ。それが、展示最終日の夜三時間だけ、搬出の都合でこの美術館に運ばれることになった。それだけでも内密の大事件なのに、さらに。
(言えない言えない…)
予告状が来た、とは。

「“グリーングラス・プリンセス”と貴館所有の“白いドレスの湖”、頂きに参ります。ーsai」

(…漫画みたい…)
本当だろうか?しかし人騒がせな緑のお姫様がつかの間こちらに滞在されることになったこと自体、急遽決定した極秘事項であり、あかりから最近の様子について聞き込みをしていた刑事達も、真剣だった。
(あの一番感じのよかった刑事さん…伊角さんだったっけ…あの人一度も、予告状の名前口にしなかったな…)
もしかして公にされていないだけで、その筋では有名な泥棒、だったりして。
「藤崎、もう仕事引けるんだろ?」
「あ、うん。うん。ご飯食べていこうよ」
その前に、と、あかりは第一展示室を覗いた。正面に、翡翠の森。今日は祝日なのである程度人もいる。カップルや家族連れ。皆、説明板や作品を思い思い眺め、時折ひそやかに会話している。
(あ。…あの人!)
その中に彼がいた。前とは違う焦茶のライダーズジャケット。今日はサングラスをかけていない。一人で、じっと、湖の波紋を見つめていた。
「藤崎?」
正直言って、刑事に不審な人物を問われたとき一番に彼を思い出した。しかし何の確証もなく疑うのは…片想いしているみたいだ。
水没した白骨を、彼は感情の見えない目に映していた。唇が動く。音は聞こえない。分からない、分からないけれど。
「…佐、為…」
そう、聞こえた。
「…三谷くんごめん、ご飯はまた今度」
美術館を出ていく青年の後を、あかりは追い始めた。

…つけられている。
ヒカルは内心うーむと頭を掻いた。ビルのショーウィンドウ越しにちらりと視線を流す。長い髪の少女がいる。
(…だからやだって言ったんだよ…もう…緒方さんに責任取ってもらわねえと…いやそれとも和谷かな、あいつがいりゃ押し付けたのに…)
さて、どうしよう。下手に疑われたままでも動きづらい。
(なんか穏便に諦めてもらう方法…)
ぶらりと街をさまよい、道を折れる毎に人の少ない方向へ。あまり気は進まないが、単なるナンパ野郎になった方が安全だろう。清純派は今だけ妥協。
両側一帯に工事現場の広がる開発地区に入った。背の高いフェンスで視界はせばまる。
「あれ、進藤?」
そのとき、名前を呼ばれぎくりとした。半分お仕事モードなのだ。やばい。
「進藤? 驚いた…服装がいつもと違うから…」
まずい、名前、聞かれたくない。というかなぜよりにもよってこいつがこんなところにいる。誰か不埒な奴に連れ込まれたんじゃなかろうな!?
「しんど…」
「しっ、黙って!」
我に返る。塔矢は白いシャツにスラックスだ。制服ではないから指導碁か何かの帰りかもしれない。
「動かないで!」
声をひそめ、真剣な顔で塔矢を抱き寄せた。そんな場合でもないが感慨深く、気を抜くと思い出が回りそうになる。手を重ねようとすると必ず邪魔が入った。気持ちをほのめかしても全く通じなかった。何度、何度その髪に触れようとふざけて後ろから抱きつこうと…
「し、進藤?」
「動かないで。そのまま恋人のふりしてて…!」
一石二鳥というかどさくさまぎれというか、とにかく塔矢の頭を胸に抱え込む。髪型でも体の薄さでも、見ようによっては女の子に…
「え、君、恋人じゃなかったのか?」
その瞬間すべてが固まった。
「……マジ?」

アキラが進藤ヒカルと出会ったのは十二月だった。まるでふらりと碁会所に現れ、震えが来るような対局を進めていたくせに、携帯電話の着信一本で去っていった。
その夜は眠れなかった。もう会えなかったらどうしようと思った。あんなにも誰かに会いたかったことはない。次に彼がやって来たときは、一日シャツの裾を握って離さず、呆れられた。
「あれから誰と打っても君のことばかり考えているんだ。君を待っていた」
名前と連絡先を問い詰めると、彼は両手を挙げて「降参」と天を仰いだ。
プロになれ、と何度言ったことだろう。学校にも行かず、特定の仕事についているわけでもないらしい。よく小さな傷を体中にこしらえている。元気がありあまっているようだから、日雇いの肉体労働でもしているのか。フリーターなのだろう。なんてもったいない!
「いいんだよ。俺は。お前と打てれば」
ヒカルはそう笑うが、アキラは是非彼と、棋士として対局したい。したくてたまらない。こんなふうに思う相手もまた初めてだ。彼と出会って以来、自分でも知らなかった自分がいとも簡単に出現して、ひどく驚く…
「動かないで!そのまま恋人のふりしてて…!」
指導碁の帰り、一駅歩けば定期区間内なので、散歩気分だった。見慣れぬ格好をした進藤は、知らない人間のようでどきどきした。
「え、君、恋人じゃなかったのか?」
驚いて素朴な疑問をぶつけると、ヒカルは大きな目を更に見開いた。
「マジ!?」
「え…」
違ったのか? 今度はアキラが驚いた。
ヒカルはがばりと後ろを振り返った。髪の長い少女がそこに立っていて、ヒカルと目が合うと顔を赤くして駆け去った。
(…あ…)
とっさに、騙されたという思いが沸き上がった。あんなにも、(碁を通じて)繋がっていると信じていたのに。
ヒカルがもう一度アキラに向き直ったとき、アキラは雷雲を一気団分背負っていた。
「うぉ…」
「…あれが“sai”?…いや違うか、どこかでひっかけて適当にあしらうために僕を利用したんだな…」
「え、ええっ…!てかなんでお前がその名前知ってんだよっ!?」
「君の携帯の着信履歴を見た。君が僕(との対局)より優先する電話はいつも“sai”からだ」
「見んなよ!? お前そんなだからストーカーよばわりされんだよ!」
ヒカルは、一気に流れ込んだ情報量に混乱し、あわあわと慌てふためいた。
「だ…大体佐為とはそんなじゃねえし、あの子も無関係だよ!お前何か誤解してる!俺はお前を……いつかかっさらうつもりで…」
「いつかと言わず今からそうすればどうだ」
ヒカルがぐっと言葉を飲んだとき、またあの旋律が携帯電話から流れ始めた。
間の悪さをヒカルがフォローするより先に、アキラはすっと目を細め冷ややかに言い捨てた。
「ああ、僕は今まで何か勘違いしていたようだ。すまなかった。……もう二度と君の前には現れない」



(…時間だ)
伊角は制帽を被り直し、展示室を見回した。さして広くない。エメラルドの王冠は保管室で厳重な警備の元にある。絵の方が軽んじられているのは明らかだった。
(…こっち担当になるってことは…あんまり評価されてないってことか…)
考えると少し滅入る。が、すぐに、そんな場合ではないと思い直した。
(逆にチャンスだ。ここで“sai”を捕れたら大手柄だぞ。それだけじゃない。“zelda”との関わりを証明できたら、組織を一網打尽だ…)
最近一定の頻度で起きている美術品の盗難事件を伊角は追っていた。
(…今度こそ…)
予告状が来た上で盗まれる。今のところ連敗中で、捜査陣は煮え湯を飲まされている。
予告された時間の幅は一時間。これまでの手口からして、この時間内に来る可能性が高い。
伊角は改めて件の絵画を眺めた。何号というのか分からないが、そう大きな作品ではない。一見メルヘンティックで流行りの癒し系だ。
伊角は、ここの職員から聞きこんだ話を思い出した。
湖の中、髪を水に漂わせる白骨死体。
(……オカルトは……苦手だ…)
幽霊?…絵画にまつわる物々しい怪談…。白いドレスの…
はっとした。
視界の隅、薄羽のように翻る白いスカートの裾があった。
(え…)
長い髪と、白いドレスの少女が……いた。
どこからともなく、まるで軽い身のこなしと足取りは、存在さえ儚い。
(ゆ、ゆうれい!?)
非科学的だ!
(監視カメラは、非常ベルは!?)
ふと気付くと、静寂の中で掛時計の秒針の音がやけに大きかった。予告された時間だ、と伊角は思い、はたしてその水彩画に手を伸ばす少女に駆け寄った。
(幽霊じゃない幽霊じゃない!これは“sai”だ!)

「おい!貴様!」
……では、“sai”が幽霊だったら?

肩を掴もうとした指が、数秒止まった。
少女が振り替える。森の匂いがした。大きな瞳。幼さの残る丸みを帯た顔の輪郭。
「…うっ…」
恐怖でくじけた心と、不覚にも少女にみとれた隙に…その清純なスカートから繰り出された回し蹴りが、見事に伊角の腹に決まった。



「……確かに笑えないくらいお似合いだったな、進藤」
緒方が週刊紙をばさりとテーブルに放った。表紙には、「連続美術品盗難事件、犯人は謎の怪盗美少女!?」なる見出しが踊っていた。
ヒカルは演技でなく顔をひきつらせ、寝そべっていたソファから身を起こした。
「…緒方さん…変なこと考えちゃいやだよ」
「つれないな」
「つれなくていいの!」
頭を掻きむしる。緒方は薄く笑った。
「記念に写真を取っておけばよかった。……さて、冗談はこれくらいにして」
「ほんとに冗談なんだよねっ?」
「ほら、約束の額の小切手だ。…しかし本当にいいのか? お前今までは全額…」
「いいの!」ヒカルは緒方の手から紙片を奪い、素早くゼロの数を確認した。
「いただきます。ありがと緒方センセ」
記入された額におどけて軽くキスをして、ヒカルはにっこり笑ってみせた。
「たまにはさ、俺の青春のために使ってもいいじゃん。……きっと佐為も許してくれるよ」


「…見事にしてやられ…マスコミにもすっぱぬかれたのう…」
「……申し訳ありません」
伊角は上司の言葉にうなだれるしかなかった。
「きゃっつあいみたいじゃからのう…。マスコミが喜ぶはずじゃ。ひょひょ…」
桑原は顎を撫でながら笑った。
「おもしろくなってきた。伊角くん、これからじゃよ、これから」
「…は、はい!」
桑原は、伊角の背中といわず腰といわず、若者並の力で叩いた。
「ま、禁断の恋愛にだけは気を付けることじゃ」
にやりと笑われ、顔が真っ赤になる。背筋を伸ばし、直立不動で返事をした。
「はい!気を付けます!」
……伊角が、“zelda”こと和谷義高をすんでのところで捕まえかけ、ついでに見初められるのは、この後しばらくたってからのこととなる。

 ファーストフードの店内で、三谷は困惑して友人以上恋人未満の女友達を見た。
「…本気か?」
「うん」
 学生時代からの友人。彼女の方の仕事も落ち着き、最近やっとそれなりにいい感じになってきた。と思っていた、のに。
「いや、藤崎、でもなんでそんな…」
「決めたの、私、」
 なんて、展開。
「私、警察官になる!」


アキラはパソコンのメールチェックを終え、なやましげな溜め息をついた。
(……進藤から連絡が来ない…)
絶縁宣言をしたのは自分なのだが、そんなことは頭にない。
(くっ…なぜ追ってこない、進藤!)
がごっ、と鈍い音が拳の下でした。木製の学習机がわずかにへこむ。
(…進藤…)
また溜め息をついたとき、窓に何かが当たる音がした。
不審に思いながら外を覗く。
「…進藤!?」
「しーっ!」
窓の外に、庭の土をスニーカーで踏みしめたヒカルがいた。
「なんで僕の家知ってるんだ…?」
「ニュースソースは企業秘密だよ。そんなことよりさあ」
ヒカルはこほっと咳ばらいをして正念場に備えた。が。
「打とう! 進藤! 今から!」
がしっと手を握られあれよあれよという間に部屋に引きずり込まれてしまった。
「いや、あの、ちょっと…えと…あれから考えたんだけどさ…やっぱり俺は…碁を打つよ、というか…ずっとこの道を…いや違う…つまりお前と……」
「ああ、僕も思った。君は僕の生涯のライバルだ…」
「………。違うだろ」
「ええっ!? 違うのか!?」
ヒカルは目の前の碁盤を引っくり返したい衝動に駆られたが、そんなことをすれば逆鱗に触れるは必至なので堪えた。
「いや…もう…いいですそれで…」
こいつの中ではきっと、恋人と書いてライバルと読むのだ。がくりと肩をおとすも、惚れた贔屓目かリスのように焦るアキラに正面から見つめられ、ヒカルはまた見当違いに胸をきゅんきゅんさせるのだった。
「あー…それでな…これ、」
仕切り直しだ。
「こないだの…っていうか、今までのお詫び」
 じゃらりと音をさせて、包装を断ったそれを取り出す。箱や包装紙の店名を見れば、いくら世の中に疎いアキラでも、それがどの程度の価値のものか分かるかもしれない、から。
「え? …わぁ…」
 アキラは両手を差し出して受け取った。密やかな輝きを放つ、それはエメラルドのネックレスだ。(ちなみに男物である。)
「すごい、綺麗だね。いいの?」
 …ガラス玉か何かだと思われているのかもしれない。それはそれでありがたいが。
「うん。…あのな、その……いつか、」
 いつか、これを指輪にして、贈りなおす。
 そう言おう言おうとヒカルはもごもご口を動かした。
「?」
「……………。…………打とうか」
「! ああ!」
 己の不甲斐なさに内心涙しながら、対局を始めた。
「本当に、これ、綺麗だね。この間の盗難事件を思い出すよ」
 心臓が喉から飛び出すかと思った。が、表情は変えない。
「…へぇ、意外。お前でもそういう俗なニュース知ってるんだな」
「どういう意味だ。…でも、そうだな。父がいなければ興味もないかもしれないけれど」
「お前のお父さん?」
「うん、警視総監なんだ」
「…………………なんだって?」



 それぞれの思惑が絡み合う、恋の略奪逃走劇は、まだ、始まったばかり…