ハニィ

 蟻が甘いものに群がるように、何の理由も理屈もなかった。悩みも涙もなしに、作為も屈託もなしに。
 緊張やときめきには不自由しなかった。囲碁があるからだ。苦しみも胸の痛みも、動機付けも振り返っての検討も、囲碁で十分に賄えた。
 だからキスをするのも、体のあちこちで触れ合うことも、自然であればこそ不思議ではなかった。
 本当に?
 本当に。


 目を覚ますと左の腕は完全に痺れていた。録画していたテレビ棋戦が流れっぱなしだ。聞き手役の女流の相槌だけが、トーン高く耳に飛び込んでくる。その合間合間に、ずっと静かな寝息が聞こえた。腕の中から。
 塔矢の方がまだ背が高い。だから、胸に抱くようなそんな姿勢を取るには、大分とベッドの上の方にずれて横たわらなくてはならない。頭が当たりそうだし、塔矢の足先はきっと多分ベッドからはみ出そうになっている。腕への負担とか風邪を引く可能性とか、たくさんのリスクと引き換えた時間なのだからせっかくだ。
 視線を落とすと、すっとした横顔に黒髪がかかっていた。寝顔は少しばかり無邪気だった。持ち時間を使い切ったらしく、秒読みの声がなぜかいつもよりゆっくりと聞こえた。
 ビデオが終わる頃に塔矢もまぶたを開けた。眩しかったのだろうか。第一声は「カーテン」だった。笑った。ビデオ終わったよ。お前半分以上見てないな。ああ…そうか、寝てしまったんだと塔矢は言い訳をした。知ってる。答えて時間を告げた。夕刻。
 一日が。終わってしまう。無為な休日だと塔矢は呟く。ムイ? 聞き返したが返事はなかった。
 起き上がり、ビデオをテレビモードに替え、五分もしただろうか。思い出したように塔矢が、寝転がったままで口に出した。何もしない、くらいの意味だ。
 何を言っているのか分からなくてしばし考えてしまった。ああ。さっきの。いいじゃん何もしなくて。お休みの日なんだからさ。
 左の腕をぐるぐると回す。肩をほぐす。身体を動かすと空腹に気づき、冷蔵庫へと歩いたが目ぼしいものは何もなかった。買い物に行かなきゃ。呟くと、塔矢が、それなら早く行こうと誘った。適当に外出の格好を整えて、コートを羽織る。アパートのドアを開けると突風が顔に吹き付けた。
 春一番だ。テレビが言っていた。寒いぞ。お前いっぱい着ていけよ。うん。
 手を繋いで、スーパーへと出かけた。
 誰かの庭が見える角で、塔矢は嬉しそうに梅を指差した。寒空を凛と突き刺す枝に、丸みを帯びた紅が灯る。そんなふうに見上げると、水色の空にふんわりと白い月が浮かんでいた。
 進藤くん、お買い物? スーパーの手前で声をかけられた。アパートの下の階の、みほちゃんのお母さんだ。そうっす。ども。軽く会釈。彼女は笑い、それから驚いた顔をした。すれ違っても、少し振り返っていた。きょとんとあどけなく。繋いだ手を一度ぎゅっとした。スーパーの前で、女子高生が二人、こちらを見て何か囁きあっていた。
 ぽつりと塔矢が言った。キスしようか。
 うん、また後で。微笑んだ。


 スーパーの緑のカゴに、お惣菜と明日の朝のパンと蜂蜜の瓶を入れた。蜂蜜? 塔矢が首を傾げる。うん。蜂蜜。お金を払って片手にビニール袋を提げ、そうしてまたずっと手を繋いで、静かな向かい風の中で家へと帰ってキスした。