ヒカリ

「こちら日本棋院からいらした芦原四段」
「…ども」
 軽く一礼すると、満面の笑みで応えられた。
「いやーっ、いいねえ学生服! 若者って感じで! あ、そんな遠慮しないでさっ。今日は一日よろしくね、社くんっ」
 テンションが高い。まあ気難しそうな人でなくてよかった。今日は日本棋院とその関西支部、及び関西棋院合同のイベントだ。若手の交流の意味を兼ね、自分はこの人と組んで指導に当たる。
「とりあえずまじめに打ち合わせしよっか。こういうイベントは初めて?」
「えと…あんまり。普通の指導碁なら何度かあります」
「そかそか、高校生だもんね」
 芦原は一々大きくうなづいて、先輩らしくいくつかの指示を出した。 「ま、気楽にやろうね。つっても仕事は仕事だけど、変に気を使う人とかはいないし。そうだ、前アキラがさ」
「…アキラ、」
「塔矢アキラ。北斗杯で一緒だったでしょう?」
「あ、はい」
「イベントのスポンサー相手に四面打ちしたとき、あいつ、全部持碁にしちゃって」
「はあ……て、はあ?」
「勝っちゃいけないけど負けたくなかったみたいでさ。もー、今思えばガキなんだけど」
 そう軽く笑い飛ばしているが、その様子を想像すると社は正直怖かった。
「……あの姫さん、俺が碁の勉強途中で寝てたら急須と湯飲投げ付けたんすよ…。…普通ちゃいますわ…」
 ぼそぼそ訴えてみた。そういえば彼は塔矢行洋門下なのだった。
「うーん…。あいつ、碁が絡むと人が変わるから」
 芦原は苦笑して社のガクランの背を軽く叩いた。
「普段はあれで結構ぼーっとしてるし。許してやって」
 別に許す許さないと考えていたわけではないので、はあ、とだけ相槌を打った。
「こないだもさあ、あれ、バレンタインの翌日に、ものっすごい暗雲背負ってて、聞いたらチョコ貰ったんだって。素直に喜ぶとか照れればいいと思わない? なのに眉間に縦皺寄せてさあ。翌日に貰ったのがいやだったのかな?」
 芦原は一人で喋り続けていたが、社としてはその話の内容に、多少なりとも衝撃を受けた。
「彼女おるんですかっ」
 あの、自分以上の碁バカに、まさかバレンタインなんてネタが絡むとは夢にも思わなかった。
「えー、いないでしょー」
 芦原は手をぱたぱた振った。
「もてるのに勿体ないとは思うけどね」
「……もてる…」
 つい復唱してしまった。
 そうか、もてるのか。妖怪みたいにけったいな髪形でも、鬼のようなスパルタでも、まあそういえば顔立ちそのものは端正と言えなくはない。
「社くんはチョコ貰った? 学校とかでさ」
「は、いえ、土曜日やったし…」
「わ、そうか。今は土曜も学校ないんだ」
 芦原は、まるで戦隊物のヒーローが必殺技の名を唱えるように、不必要に抑揚をつけて「ジェネレーションギャーップッ」と呟いた。
「よし、じゃあお兄さんがあげようね」
 それからおもむろに鞄を探り、銀紙に包まれたアーモンドチョコを一粒、社に手渡した。
「……ども…」
「わいろだよ」
「…は、」
「アキラと仲良くしてやってね」


 イベントはつつがなく終了し、打ち上げに向かう人々から、社は頭を下げて別れた。
「一応高校生やから…」
 あまり遅くなるとまた学業に支障が出て、そうするとまた家庭方面がうるさくなる。
「またねー、お疲れ様ー!」
 芦原が手を振っていた。今日の仕事は悪くなかった。自分はまだまだ「ジュニア」でしかないから、今のうちにいろいろ経験しておかないと。
 打ち合わせのときの芦原の抑揚を真似て、「経験値あーっぷ」と呟いてみた。
 家の扉は、さすがにチェーンこそ外れていたが、二重ロックはしっかりかかっていた。ダイニングテーブルには、今朝開いて置いてきた月刊囲碁関西が、そのままのページでそのままの位置にあった。
 まさかこれを囲んで夕食を取ったわけでもなかろうに。父親のポーカーフェイスを思うと、逆に笑える。
(予想はしてたけど、ほんのちょっとだけ、高校に通わせたかったなあ)
 ただ一つの譲れないこと、それ以外について、すべての執着を手放せたらよいのに。それは人が思うほど寂しくはなくて、潔く強くこの目には映るから。ただ一つの光が強すぎるのだ。
 部屋に戻って、駅の売店で買ってきた賃貸情報誌を鞄から取り出した。すると一緒に小さな銀紙も飛び出して、甘い香りを放つそれをつかまえた。五秒。
(けど、あの塔矢アキラにかてバレンタインがあるんやで?)

 カルチャーショーック、と呟いて、銀紙と一緒に情報誌をゴミ箱に捨てた。父親の眠る寝室側の壁に、蹴りを一発入れてから寝た。