比較的、同居人に対する気持ちに余裕があったから、穏やかな休日の午前11時、彼の調理の手伝いをしようと台所に立った。
 おや珍しい、と進藤は手を止めた。家事当番を特に決めているわけではないけれど、フライパンや鍋を手にする頻度は進藤の方が圧倒的に多い。そもそも料理がうまいのだと思う。僕だって、食べられないほど下手なものは作らないけれど、たとえば本を見て作ったとしたら、本当にそのままのものが出来てしまう。美味しくないこともないのだけど。なんとなくそれ以上にもならない。進藤の場合、作り方ははっきり言って非常に雑なのに、素直に美味しいと思えるものを作る。料理センスがあるのかもしれない。
 だから、おかずの味付けやら何やらは彼に任せて、ごくごく普通に、米を炊こうと思った。この間実家から貰ってきた米を計って入れて、水で洗う。それから、平らな場所に置いて水の量を確認しようとした。
 そのとき、すぐ横のコンロから火が燃え上がった。何を嬉しがってふざけたのか知らないけれど、進藤が、大きな中華鍋をオーバーに揺らして、中の油に火が移ったのだ。
 咄嗟に進藤を押しのけて、水切り籠にあった他の鍋の蓋を被せた。焦げ臭い匂いがした。怖いくらい立ち上がっていた炎が消えて、ほっとしたとき進藤の慌てた声がした。
「塔矢、髪、髪!」
 それからすぐに、水飛沫を引っ掛けられた。頭から。気づくと、耳の上あたりの髪が一房、細かく縮れて嫌な臭いを放っていた。
 それから数分、進藤は叱られた犬のようにしおらしく、縮こまって謝罪を繰り返した。僕はとりあえず肩に落ちる水をタオルで拭い、改めて米を炊飯器にセットした。

 落ち着いて昼食を取った後、これのために散髪に行くのも少し気が引ける、と言った僕に、進藤は無邪気に提案した。
「じゃあ俺切ってやるよ。それだけなら揃えるくらいだろ? それにお前の髪型くらいなら俺にも何とかなるって」
「…切り過ぎるなよ?」
「うん、それは怖いからやんねぇ」
 と、いうことで、フローリングに椅子を出して、周りに新聞紙を敷いた。進藤は懲りもせずこういうことが嬉しいらしくて、必要以上に準備を整えた。肩に、少し熱めに蒸したタオルを置いたり。
「切り過ぎるなよ?」
「うん、ちょっとだけ」
 まずは焦がした髪に鋏を入れる。ごめんなー、という声がした。
 その後はもう無言で、集中しているのが分かったから、そのままにしておいた。時折、首の後ろに、鋏の冷たさを感じたりした。時折、彼の指が、関係ない具合に髪を滑ることすら感じたりした。



hair cutter



 進藤は、誘いをかけるとき、所作や言葉尻がとても甘ったるくなる。そういうところは分かりやすい。こういう関係になる前も、彼の電話先がただの友人なのか恋人なのかは、横で聞いているだけですぐ分かったものだ。何の変哲もない言葉でも、口説き文句とはこんなに分かりやすいものかと驚いていた。ごくごく普通の仕草でも、愛撫となるとこんなに分かりやすいものか、と。
 進藤が髪を撫でる。数日前に小さな喧嘩をして、そのせいもあってか普段以上に優しい手つきだ。まるで壊れ物を扱うような手つきは、日が昇っている間の彼の無遠慮な言動と比較すると、笑ってしまいたくなるような種類のものだ。
「…俺何かおかしい?」
 顔に出ていたらしい。不本意そうに進藤が尋ねた。
「おかしいね。君はすべてが不可解だ」
 そう答えると、面倒くさそうにため息をつかれた。それに抗議しようとした唇を塞がれた。腰に回された腕でしっかり体を固定されて、そのままでベッドに倒れこむ。どうして彼が僕にこんなことをするのかが不可解過ぎて、分からないままに嵐に流されるのはいつものことだ。
 互いの衣類を奪う頃には、互いの昂ぶりを下肢に感じて、その無理解と惨めさに、おかしくて涙が出そうになる。彼が、一転遠慮がちな仕草で僕の体を開こうとする。こんな苦しいことをどうしてするんだろうなぁとぼんやり思う気持ちも、行為が終わる頃には、二人に対する哀れみのような感情に変わる。悲しみというのとは少し違う気がする。彼も僕も、かけらだって哀れまれるような矮小な存在ではないとも思うのに、水、と呟く僕のためにベッドに向けられた背中を見ていると、胸の中にじんわりと染み出すような気持ちを抱く。君はすべてが不可解だ。
 コップ一杯の水を手にして、汗をかいた半裸のままで、くしゃみを繰り返す彼の滑稽さは、コップに口付けることすら出来ないで、水と一緒に再び彼の唾液を求める僕のいたたまれない不道徳さと等しくて。
 また、部屋の空気が生温く淀むのが分かった。コップをサイドテーブルに置いて、彼がベッドに戻ってくる。もっかいする? 耳元で囁かれて、頷く代わりに目を閉じた。
 体に触れてくる。時折思い出したように髪に指を滑らす。そんなことされたって、髪に感覚はないのに。体に触れられる。露出した皮膚が粟立つ。ごめんなさい、と咄嗟に思う。
 二回目だから楽な姿勢で、と、うつぶせにさせられた。背中に口付けられてぞくぞくした。進藤は、始めの頃はさすがに躊躇していた恥ずかしいことや汚いことを、今では抵抗なくするようになった。やがて、硬くなったものを押し付けられて、いろんな意味で目眩がした。くらくらした。
 進藤は、子供みたいにがむしゃらに、奥へ奥へと来たがる。あまり乱暴にされるとやっぱり痛くて、今でも時々、我慢しきれないときがある。
 事が終わって、しばし眠ってしまっていたようだった。意識を取り戻すと、進藤の腕の中にいた。柔らかく腕に抱かれていた。雛のように、こんな場所にいるのはとても後ろめたいことでもあった。気持ちいいのだけれど、守られているようでもあって。……そうか、対等な関係でいられないなら、せめて自分が「外」であろうと、僕は彼を迎え入れているのかもしれない。
 冷たい外気に汗を冷やされないよう、自分勝手に彼を守った気になって。引き裂かれるような痛みから彼を救った気になって。お互い矢面に立つために、彼は僕を抱いて、僕は彼に抱かれるのか。その痛みの理由さえ知らず?




 黒石。次に白石。また黒石。二眼を作ろうとしている若い女性の手は、先に守るべき場所を見抜けずにいた。それに対し、白はやんわりと、正しい場所に導こうと打つのだが、やはりまだ気づかない。欠け目になる。
「あ、あれ?」
 やっと、女性が声をあげた。白は…進藤は、とりあえず黒を完全に殺す一手を打ってから、その形を崩して説明を始める。
「だからさ、ここで、先こっちに打つかここ守るかで全然違うんだよ。ここは大事なとこだから、絶対死なせちゃ駄目。この黒が生きたら、ほら、逆に、今黒を殺した白が、外の黒で逃げられなくなる。…な?」
 進藤はそこで、彼の指導碁を不躾に眺めていた僕を振り返った。「な? そうだよな、塔矢先生?」
 明るく笑う。
 笑う。盤上には幾重ものモノクロームの囲いが出来ていた。



「…何がおかしい?」
 鋏が髪を断つ音と一緒に、しのびやかな笑い声が聞こえた。
「ううん。あ、鏡見ろよ。ど? 大体出来たぞ」
 タオルで首筋を拭われ、手鏡を渡された。焦がしたところは一部短いけれど、これは仕方ないとして、後のところは多少切りそろえられただけだった。
「文句ねぇだろ?」
 明るい声で進藤は言って、髪を撫でた。感覚すらない一番端の部分なのに、体の奥の方がじんわりと濡れたように熱くなって少し慌てた。
「そうだね、もっと不器用だと思ってたよ」
 憎まれ口を叩いて誤魔化す。進藤の指が髪を梳いて、フローリングに落ちる高い日の光を僕は見る。床に散らばった新聞紙と髪の毛。
「なーにが。上等じゃん。もちっと切る? あんま代わり映えしなくてつまんなくね?」
 進藤が僕の後ろ髪を弄ぶ。その「もうちょっと」が怖いんだ、と苦笑して、だけど結局は彼の言葉に頷いた。首の裏に当たる鋏の冷たさ。うなじに滑る髪の毛を受け止める手のひら。耳を掠める指の熱さと、髪の表面をあるかないか撫でるその仕草は。
 何気ないのに、分かりやすい。


 黒と白。
 きっちりと境界線を定めずにおれない僕の心を含め、君の指はいつでもすべてをひっくり返す。
 一番奥に隠していた思いすら、一房の髪に宿るものだと君は知る。
 抱くことも、抱かれることも、ただ一つの裏表だと、そして君のために僕は知る。