物語の断片を水の中で拾い集めて、僕は

 薄汚れたラブホテルの行きずりの壁の染みが、冬枯れの木立ちの姿をしていた。中途半端な時間に目が冴えてしまい、寝返りを打つと進藤の背中が視界に広がる。夏の間に何度か海に繰り出していた彼の、日焼けの色が残る肌をぼんやり見つめた。何か意味のある表象が浮かび上がるのではないかと。見ているうちに、去ったときと同様の性急さで睡魔が戻ってきた。知らないうちにまぶたが下りて、残ったのは情事の後の静かな眠りだった。

 すでに身支度を終えた彼に揺さぶり起こされた。
「俺昼前に約束あるんだ。半額置いとくから精算しといてくれよな」
「……くれよな?」
「………しといてくんねえ?」
「分かった」
「お前いちいちめんどくさいんだよな」
「君の態度が悪いんだ。それが言葉遣いに現れる」
 進藤は舌打ちをした。それを咎めようとしたとき衣類が降ってきた。
「綺麗にしてやって、着替えも用意してやる態度が悪いのかよ」
「それは助かるけれど半分は君のせいなんだら感謝と評価も半分だ。それよりいい加減舌打ちは止めろ。小学生ならともかく、今の君の年と姿では不良みたいだ」
「お前の言い方には愛が足りない」
 顔を見ると、進藤は疎ましげだった。今時不良なんて言わねえよなあ、とぶつぶつ言い捨てて出ていった。
 ゆっくり起き上がると室温は快適で、体はまあ清潔と言える状態だった。
 熱いタオルで他人の体を拭き、部屋の温度を調整するとき、彼は何を見ているのだろう、そう思うと不意に後ろめたくなり、次に会うときこそもう少し優しく接しようと幾度目かの決意をするのだった。

 実行に移す機会は一月後に訪れた。手合い日が重なったのだ。週始めに春一番が路傍の自転車や看板を薙ぎ倒していった木曜日。しかし二月。まだまだ厚手のコートを手放せず、マフラーと手袋で防寒していた。
 進藤は、無論相手にもよるがおおむね早打ちが得意だ。波に乗っているときなど、こちらが気付けばとうに中押し勝ちで席から消えている。反面、手厚く腰を据えて、最大限持ち時間を費やすこともあり、傾向としては年配や高段者相手の対局に多い。そういうところは、実は自分と反対だったりする。
 ともかくその日、終局後振り返ったときにはもう彼はいなかった。対局相手だけがじっと整地された盤上を睨んでおり、勝者に碁石を片付けさせなかったらしい。
 つかまえて一局並べさせようと、足早に棋院を出ると不意にマフラーを引っ張られ、すわ白昼堂々首締め強盗かと思った。
「お前ってあんま周り見て歩いてねえよな。それでも進藤ヒカル専用センサーはついてるもんだと思ってたのに」
「なんだそれは」
 片端が長くなったマフラーを整えた。
「君、これから予定は? ないなら今のを並べてくれないか」
「いいよ。どこで?」
「どこでも。ああ、でもすぐに見たい」
 自分は都内では大抵身軽だが、進藤はいつも大きな荷物を背負っていて、その中にポータブル碁盤が入っている。どこででも打てる。
 結局、最近できたチェーンのコーヒー店に入ることになった。俺は席を取るから、と、進藤は人にホットコーヒーを二つ買わせた。
「代金は?」
「払うよ。そういう言い方されっと反対に払いたくなくなるけどな」
 ウォレットチェーンをずるずる引っ張り、進藤は財布から小銭を取り出した。金額を告げていないのに十円単位で正確だったので、よく利用するのだと知った。
 二時間ほど碁盤を広げていたが、混んできたので切り上げた。少し歩こうと進藤が言うので、検討をしながら散歩をした。それほど寒くはなかった。
「社がさあ、期間限定メニューのなんとかマックってのは東京もんに媚びを売ってるって言うんだよ。なんでなんとかマクドじゃないんや、って。…なんでって言われてもなあ」
 話がずれてきた辺りで進藤が足を止めた。日は長くなってきたもののそろそろ夕方と言える時間だろう。
「梅だ」
 見上げると確かに、マンションの塀から紅梅の枝が伸びていた。
「ああ。いいね。今年は早いらしいし」
 思わず少し声が弾み、開花時期など意識している自分に驚いた。
「満開まで後少しかな。いいな」
 そういう品種なのか、香りはあまりしなくて残念だった。
 眺めていると、進藤が、キスをしてきて、驚いた。
 まだ明るい空の下だ。突き飛ばそうとしたが、その前に彼の方から離れ、口許を押さえると顔をしかめた。
「…虫歯でもあるのか?」
 なけなしの想像力を駆使して尋ねたが、進藤はとんでもないと首を振った。
「口内炎だよ。いてえ」
「…ビタミンを取れ。ジャンクフードばかり食べてるんじゃないか?」
 条件反射のように説教口調になってしまった。進藤は手のひらで唇を覆ったまま、いかにもむっとしましたという顔になる。
「…痛いんだぞ?」
「…だから、僕にどうしろと?」
 進藤は溜め息をついた。聞かせるためでもないらしいそれに、正直少し傷ついた。
 口内炎持ちの進藤がまたキスをしてきた。彼の肩越しに、梅の枝の作る鈍角が視界に入る。口内の物理的な炎症以外に、何かしらの痛みが彼へ訪れてはいやしないかと、目を、凝らした。唾液に染みる刺激を押しても唇を合わせることに何の意味があるのだろう?

 大胆なことをしたと我に返り、慌てて周囲を見回した。幸い人影はなく、キスは数秒ほどのものだったので胸を撫で下ろした。
「…痛い」
 進藤がまた顔をしかめている。
「自業自得だろう」
 口づけについてそう言ったつもりだったのだが、範囲の広い解釈も可能だと言った後に気付いた。しかし進藤はとりたてて平気な顔で、ホテル行こうと誘いをかけた。
 ラブホテルはあまり好きではない。ネーミングからしてどうしようもないと思う。しかし進藤は逆に、その安直さが気に入っているらしい。しようのないところで、彼は無邪気なのだ。
 ホテルの決して広くないバスルームに二人で入り、シャワーを浴びながらキスをした。こちらの肩に顔を埋めて、進藤は「アキラ」と口にした。と思う。 名を呼ばれるのは初めてだったので自信はない。二音目の母音が強すぎたような気もする。考え過ぎかもしれない。本当は何の意味もなかったのかもしれない。
 アキラ、と、今度こそ名前を呼ばれた。見つめた。安っぽいタイルに滴が作る模様を。そうだ、僕は塔矢アキラで君は進藤ヒカルだ。他の何者でもなく、そして棋士だ。それ以外の何者でもない。
 だから、君の手の意図を、意味を、探り見出だそうと僕はする。背に負う数多い因業の、そんなもの一つでしかないんだよ。
「……君が好きだ」
 進藤は驚いて顔を上げ、そしてまた痛そうにした。構わず同じ言葉を繰り返すと、やっと少し笑って、水音に紛れるような小さな声で、俺も、と言った。