断片

「信じるものは救われるんですよ!」
 二人で歩道橋の側を歩いていると、首から何か札みたいなもの下げた男が、塔矢の腕を掴んだ。
 そういう男がそこにいるのは、少し前から認識していて、自分は避ける準備をしていたけれど、日ごろなんとなく周りの見えていない塔矢は、突然の出来事に瞬間目を丸くした。
「分かっていますか、あなた、お友達同士でしょうが、深刻な悩みを相談できるような相手ってなかなかいないでしょう、私たちはそういう場を提供したいと思って声をかけたんです、神様なんていうと皆さん胡散くさい顔をなさいますが、本当は目に見えなくても神様はいつもあなたの横におられるんです、ご存知ですか、神様は、」
「塔矢、いこ」
 男は際限なく早口でまくし立てていた。いつになく強引な手合いだと思い、男と塔矢の間に割り込もうとした。しかしその前に塔矢は、やんわりと男の指を解いた。嫉妬しそうに優しい仕草だ。男に少しだけ目礼して、塔矢はすぐに自分の横に並んだ。男は、しばらくぼんやりと宙を見てから、また通りすがりの人に強引な説法を繰り返し始めた。


 最近周囲がざわついている。一局勝つのがよろしくないようだ。同じレベルの段位にいる棋士たちが一番騒がしい。まだ二十歳にもなっていない若造に、先に昇段されることが怖いらしい。
 大手合いの日のことだ。なかなかいい対局になって、これなら塔矢も文句ないだろう、と、いつになくはしゃいだ気分で勝敗をつけ、「中」の文字を書き込んだ。
 対局場を出てくる前に、塔矢の対局がヨセに入っていることを確認していたので、少し待って一緒に帰ろうと、なんとなく階段からエレベーターのあたりをぶらぶらしていた。
 すると、今日の対局相手の話し声が聞こえた。進藤、という名前が聞こえて、それでもってその響きはひどく非・好意的で、しまったなぁ聞くんじゃないぞと思っても、どうしても聞いてしまう。
「——だよ」
「まだ低段者だろ?」
「ああ。そりゃぁ強いことは強いけどさぁ。なんとなく態度がな」
 こそこそするのも変だと思って、話題に出ている「いけすかない」態度で、堂々としていた。相手はまだ気づかない。
「あれで強いなんてさ、何か秘密でもあるんじゃないかってもっぱらの噂」
「なんだよそれ。ズルしてるとか?」
「そうそう。それか、何か憑いてるとか」
 笑い声。思わず、持っていた扇子の端を鳴らすと、2対の目がやっと自分に気づいた。途端に気まずい様子で口をつぐむ先輩棋士に、笑って言ってやった。
「うん、そう。俺、憑かれてるんですよ」
 そのとき視界の隅に塔矢の姿が現れたのだけど、言葉は止まらなかった。「囲碁の神様にね」
 明らかに彼らはむっとした。当然だと思ったけれど、それ以上やり取りをする気にはならず、勝敗をつける塔矢に声をかけた。
「勝ったんだ。どんなだったか並べろよ。行こ」
 半ば無理矢理別室に誘った。天下の塔矢アキラ、というイメージはこういうとき有効で、その場の悪い空気に関わらず、それ以上喧嘩を吹っ掛けられることはなかった。
 二人分の棋譜を検討し、珍しく塔矢からお褒めの言葉を頂いて、調子に乗って「これからどうよ」とお誘いをかけた。すると、若干の沈黙の後で承諾の言葉が返ってきて驚いた。それだけで、実際のやるやらないに関わらず簡単に浮上する。
 塔矢を車に乗せて、ドライブとカモフラージュを兼ねて空いた道路を流す。これからする事が決まってしまうと、塔矢はいつも口数が少ない。窓を眺めながら、ぽつぽつ相槌を打つだけになる。つまらないけれど、ある意味雰囲気は盛り上がる。そろそろ目的地に向かおうかと、赤信号の間に場所を熟考していると、不意に塔矢が口を開いた。
「ああいう言い方はよくないよ」
 しばらく反応が返せずにいて、信号が青になり、アクセルを踏み込んでやっと思い当たった。先ほどのやり取りのことを指しているのだ。
「……ああ、」
「君はいつも一言多い」
 認めざるを得ないが、塔矢相手にあまり素直になるのも癪なので答えなかった。少し拗ねたような表情になっていたのだと思う。塔矢がこちらを見て、小さくため息をついて、それからやはり小さく、笑い声を漏らした。これも珍しい。
「そんな顔しなくてもいいだろう。……性分なんだろうね。そのまま一生直らないのかな、君のそれは。…まぁでも君の場合、敵と一緒に味方も増やせるんだから、それはそれでいい性分だ」
「お前は敵ばっか作るもんなぁ」
「……あえてそうしているわけではないんだけど。なぜなんだろうか」
 塔矢があんまり真面目にその疑問を口にしたので、今度はこちらが笑えた。
「敵ばっかなのは自覚あるんだ?」
「…さすがにね」
「でも自分で敵作ってる自覚がないとこがお前らしい」
 塔矢は眉を寄せて、いつもの怒った表情で、なんだそれはと吐き捨てる。「まるで僕が救いようのない鈍感みたいじゃないか」
 それはそれで可愛い、と思ったけれど言わなかった。というか言えないと思う。そういうことは。なかなか。
 イエスもノーも言わず、ただ笑いながら、車をラブホテルの屋内駐車場に入れた。
 こういった場所で、塔矢はいつも居心地悪げに俯いている。一応こちらも考慮して、極力人と顔を合わせなくて済む場所を選ぶ。そうでなくても、男同士は断られるところが多い。そのたびに嫌な思いはしたくないし、かといって一つのホテルに決めてしまうのは恐ろしい。ので、なかなか選択は難しい。もっとも、もう少し自分たちが有名になれば——恐ろしいことに今でもその気配はしている——どう足掻いてもこんなところ来られなくなるが。その頃にはもっと他に都合のいい場所が出来るだろう。
「…でもやっぱラブホにはラブホの良さがあるよな…」
 塔矢を先に部屋に入れながら、しみじみ呟いてみた。返事がなかったので単なる独り言になってしまった。悔しかったので、「シャワーを浴びる絶対に先に浴びる」と主張してくるのを無視して、そのままベッドに押し倒した。塔矢は怒って抵抗してきたけれど、キスをして、無理矢理舌を突っ込んで上顎の裏を舐めるくらいになると、喉の奥で呻くだけになった。
 散々口の中を攻めてから、唇を喉から首筋に滑らせシャツのボタンを外していく。なんとなく後ろめたいことをしているからだろう、そんなはずはないのに誰かに見られているような気がして、ふと顔を上げた。
 壁しか見えない。少しだけ振り返ってみた。誰もいるはずなかった。
(本当は目に見えなくても神様はいつもあなたの横におられるんです)
 塔矢の両手が伸びてきて、ぐいっと顔を元の方向に正された。
「何を見てる」と問われたけれど、それは質問というより抗議だった。だから、悪い悪いと謝ったら、本当に悪いと憮然とされた。
 うんそうだ、俺が本当に悪い、と、わざと軽い口調で繰り返しながら、もう一度顔を伏せて、愛撫を再開した。