赤い靴〜finger bowl2〜
そこに選択肢はなかったと頭で理解していても、目が覚めて自分の右腕がないことに彼は大声で泣いた。三日三晩泣き明かして、四日目の朝になって、彼は家族に碁盤と碁石を病室に持ってきてくれるよう頼んだ。
彼はプロの碁打ちだった。所属する日本棋院からは、今期の休場手配と、彼さえ望めば今後代打ちも考慮することを告げられていた。一部冷静な頭の片隅は、その可能性を考えながら、当面左手でのリハビリを開始した。友人らは喜んで、相手を務めた。
まず、碁石を掴むことが難しかった。碁をはじめた最初の頃のように、親指と人差し指で石を摘む。盤上に石を取り落としたり、何よりも思う場所に打てない不便さが、彼を予想以上に苛立たせた。棋界から遠ざからぬようにと各種棋戦の情報を聞き、自らがそこで打てない悔しさが、彼を予想以上に悲しませた。
恋人がいた。同じ碁打ちで、同じ男性だった。リハビリに苦しむ半月の後、彼はその人と別れた。頻繁に足を運んでくれるその人の顔を見るたび、彼は嬉しくも痛かった。
それから二年。
「久しぶり」
「……よお」
金曜日の夜、終電間際のJRの車両で声をかけられた。手合ですれ違ったり、同じ会場で仕事をしたことはあったけれど、プライベートで顔を合わすことは別れてから初めてだった。他愛もない世間話を言葉少なく交わした。電車に人は多かった。冷房はきつすぎるくらいに効いていたけれど、誰かが開けた窓からは、熱を含んだ風が吹き込んでいた。
「…だろう?」
「ああ、それは…」
至近距離に高校生くらいの少女がいて、電車が揺れて肩がぶつかる。彼女はまじまじと、ヒカルの揺れる五部袖を見つめた。
特急の停まる駅に着き、ヒカルはそこで降車した。そのまま振り向かず歩く予定が、人に流されたアキラの頭が軽く背中に当たった。小さい、と咄嗟に思って、途端、早くデカくなりたいとか、思っていた頃の、ことを思い出した。
アキラは一旦電車から降りて扉の横に避けた。ヒカルは左手で、アキラのその手首を掴んだ。ぎょっとしたように顔を上げるアキラを、強い力で駅の階段近くまで引っ張っていき、それから掠れる声で「寝たい」と告げた。「…お前さえよければ」
アキラは、少年の頃のように薄紫のスーツを着ていた。シャツは白で、ネクタイは深い紺色だった。たくさんの人が二人に目もくれず階段を下りていく。何人かの人はヒカルのそこにない右腕を目で探り降りていく。アキラが乗りなおすはずだった電車が遠ざかり、向かいのホームに別の電車が滑り込んでくるタイミングで、アキラはヒカルにキスをした。
「どこで?」
どこでもいいとヒカルは答えたが、すぐに苦笑して、ベッドがあるところ、と言い直した。アキラは、何を当然という顔をした。
ベッドがあるだけのホテルに入った。片腕では身体を支えられないので、想像力乏しく騎乗位でセックスした。自分の上で揺れるアキラの身体を、汗の滲む目でぼんやりと遠くからヒカルは眺めた。
久しぶりなのできつそうだった。ヒカルが放っても、アキラは波を掴み損ねて、だからといってむきになるわけでなく、萎えたまま結合を解かずに、折り重なって抱きしめあった。
「…大学入ったって?」
ヒカルは、電車の中で聞きそびれたことを口に出した。
「うん」
アキラは、自分の体重がなるべく負担にならない姿勢を探していたが、そのうち諦めたようだった。
「大検?」
「そう。案外楽しかった」
「楽しいの? 勉強が?」
「知らないことを知るのは楽しいよ」
ヒカルの胸に頬を寄せたままでアキラは微笑んだ。
「…医者から棋士になった人はいるけど、棋士になってから医学部入った奴は初めて聞いた」
「卒業はできないだろうね。授業にはあまり出れてないから。時々、面白そうな講義を聞きに行くくらいだよ。それなら聴講生でよかったね」
年月を重ねた柔らかな声の響きが愛しかった。ヒカルは左腕でアキラを抱きしめた。
「…緒方さんには、進藤のために外科医にでもなるつもりかと責められたけれど」
「あの人は、」
「心理学専攻ですと言ったら黙ってた。まぁ何にせよ君のためか。君のせいか。いや、自分のためかな」
ごめんと呟くと、二年遅いと笑われた。
あんなに囲碁一筋だったアキラが、どんな思いで他の勉強に打ち込んでいたのか。
「ああそうだね、自分でもそれは意外だった。でも、そう、楽しかったよ。自分でも。こんな人間だったのかって。ずっとよく知ってたようで」
アキラはベッドに手をついて身体を起こした。
感じてきた、ともう一度微笑んで、穏やかに腰を動かし始めた。
優しい喘ぎ声と暖かい内部の感覚に、ヒカルも目を閉じて快感に浸った。
自分はこんな人間だったのか。
こいつはこんな男だったのか。
こんなにも自分たち、
愛し合っていたのか。
睦み合いと浅いまどろみの後、久しぶりに腕が痛んで目が覚めた。どうした、とそっとアキラの声が耳につき、寝てなかったのかと驚いた。
「…腕、痛くて」
子どものように正直に告げると、アキラの手が左腕を撫でた。
「そっちじゃないんだ。右腕なんだ」
撫でる動きがゆっくりになり、やがて、「ないから撫でられない」と闇の中から声がした。困惑よりも暖かい。
「うん。でも痛いんだ。久しぶりだ。なくなった初めの頃は毎晩痛かった」
「…置いておけばよかったな。そうしたら撫でたりくらいはできる」
「ホルマリン漬けにして? やだよ。夜中に動き出して碁打ってそうじゃん。ホラーだ」
ああ、そうかと。「…もしかしてアイツが持ってったのかな。先に右腕だけ。それならいいや。身体全部はまだ駄目だし。右腕だけでもありゃ寂しくないよな」
アキラの指が右肩をなぞった。爪が、腕の付け根にそっと刺さった。
「勉強するほどに」 ふっと声の温度が下がった。「自分の無力さを感じたよ。言っておくけど泣いたよ。心の穴は身体と違って、埋めればいいというものではないだろう」
アキラの零れる吐息に色がついて聞こえた。「ちぐはぐだけどね…」
ぽっかりと。
闇の中に真ん丸に、さらに深い闇の色が見える。
空いたままにしておいたっていいはずなのに。
何かで補わずにはおけない人の性は。
あるはずのものがない。いるはずの人がいない。そこに。
「…寂しがりやなだけかな…」
「……もう一度、いいか? やっと慣れてきた。今度はイけそうだ…」
右腕を弄っていたアキラがまた身体を起こした。ほの白い肢体が浮かんで見えた。今夜はもう朝まで眠れないだろう。微笑みながらヒカルは頷いた。いくらでも消費し、いくらでも満たしあえばよかった。