ラブ・クロニクル

 進藤の家は近いんでしょう? 藤崎さん。大丈夫だよ。きっと時々は会えるから。
 高校入試の日に現像に出したカメラで、覚えのない写真が返ってきた。こういうことをするのはきっと彼女だ。嬉しくて、焼き増しした他の写真を送るとき、手紙の最後にありがとうと付け加えた。自分をほんの少し笑いながら、定期入れに写真を挟んだ。
 第一志望の高校に無事入学し、休日に久美子と遊ぶことも少なくなった。高校には囲碁部はなく、なんとか、将棋好きの男子を誘って棋道部を立ち上げた。綾香は同じクラスで最初に仲良くなった子で、半ば無理矢理入部してもらった。
 みんな、ばらばら。家の近い進藤ヒカルともなかなか顔を合わさない。家の前はよく通るけれど。それから、囲碁雑誌の小さな名前はチェックしている。
 写真。写真の中のヒカルは気安く笑っている。なんだろう、遠い。
 ヒカルくん、いますか?…なんて。小学生じゃない。もう出来ない。

 日本棋院で行われる囲碁祭りの広告を見て、綾香を誘った。
「ヒカルも出るんだよ。幼馴染の」
「ふぅん。でも囲碁とかやってる男子ってなんか根暗そー」
 綾香は色付リップを塗りなおし、「かっこいい子いればいいなぁ。共通の趣味あればいいよね」と笑った。「マイナーな趣味なら余計いいよね」
 綾香は髪の色が生まれつき茶系で、顔立ちも豪奢で派手に見える。だからか、自分でも意識してこういうことを口に出す。根は真面目だ。碁盤に向かっているとそれが分かる。頭もいい。ぎりぎりで合格した自分は定期テストのたびに落ち込んでいるけれど、綾香は少しの勉強で悠々と良い点を取る。
「予定ない? じゃあ行こうね」
 やんわりと約束を取り付ける。
「うん。島田も誘うの?」
「島田くんは囲碁には興味ないよ」
 棋道部の正式な部員は今この3人だけ。他に、かけもちで、パズル同好会の女子がいる。先月には、2年の男子が一気に3人入ってくれそうになった。始めはとても喜んだけれど、彼らの目的が自分と綾香だということに気づき、少しのトラブルの後結局流れた。
「他に誰かいないかなぁ。囲碁に興味持ってくれる人。これじゃ団体戦にも出れないよね」
「あかり、こだわるね。まぁ当面は私で我慢しなよ。今日も二子置いていい?」
「え。やだ。もう負けるもん」
 中学のときは理科室だった。今は放課後の調理実習室。担当教諭のカンパで何とか購入した折りたたみ式の碁盤で打ち始める。リップを弄んでいた指が、自分より強くなるのはもうすぐに思えた。

「へーぇ……やっぱりお年寄りばっかだね。後、子どもと」
「うん…そうだね…。綾香誘ってよかったよ…」
 日曜日。市ヶ谷にある日本棋院にやってきた。勝ち抜き戦に出場される方の受付締め切ります、と職員が叫んでいる。
「で? あかりのヒカルくんは?」
「あ、指導碁のところにいるはず…」
 後ろの方で、「可愛いお嬢ちゃんもいるんだね、嬉しいね」と声が聞こえる。
 女子高生なんて自分たち以外見当たらない。目だっていることが恥ずかしくて、少し足早になる。綾香の私服は初めて見たけれど、ぴったりとしたシャツにデニムのミニスカートで、自分から見ても可愛かった。
「院生の子? じゃないよね。あ、指導碁? 俺打とうか?」
 スーツ姿の男が話しかけてきた。「あ、いえ、私…」
「あれ、あかりじゃん」
「ヒカル!」
 思わず声が大きくなってしまって、自分が思いのほかほっとしていることを知る。
「進藤、カノジョ?」
「違いますよ門脇さん」
 …あ。
 ヒカル、変わった。
 そう咄嗟に思う。そんなこと当然なのに。いつのヒカルと比べているんだろう。
(そんなんじゃねぇよ、バカっ!あかりなんてどうとも思ってねぇもん!!)
 からかわれて、むきになって、そんな風に怒鳴っていたのは小学生の頃だ。
 …ヒカル、変わった。
「久しぶりだな。高校ってどんな? と、仕事中か。打ってくだろ?」
「…うん!…あ、綾香。あの、高校の友達。一緒に打ってもらっていい?」
「ああ。今からなら5面打ちになるけど。好きなだけ石置けよ」
「もうっ! 私だって少しは強くなってるんだよ」
「へぇ? でも残念でした。俺だって強くなってんの」
 大人びた笑顔に胸が跳ねる。石を置くと、綾香も真似をして同じ数だけ置いた。他の3人は子どもだった。先ほどの門脇とかいう人のところには、お年寄りばかり集まっている。
 ヒカルが次々盤面を展開させていく。楽しそうだ。以前打ってもらったときは、打ったそばから石を取られていくような碁だった。今日は違う。優しい。
「…うん。簡単な死活で迷わなくなってる」
「だから、強くなってるんだよ」
 優しい。…ヒカルが?
「しんどーぷろ、ほくとはいがんばってね」
 子どもに言われて、驚いた顔をして、照れた様子で鼻を掻く。手が大きい。大きくなった。
 打ち終わってみると、自分も綾香も三子負けていた。
「浜口さん、囲碁は高校から? じゃあ上達早いじゃん。あかりより強くなるかもな」
 綾香はぱっと顔を上げ、慌てて、ありがとうございましたと頭を下げた。「あかりとばっか打ってるから…。本当に強いってこういうことなんだ…」
「もー…ひどいよ、それは」
 思わず頬を膨らますと笑われた。「あかり変わってねぇなぁ。あ、お前のお母さんにもよろしく言っといて」
 ヒカルは、指導碁の後に公開対局があった。対局者は塔矢アキラ。時間の空いた門脇プロが説明してくれるには、北斗杯の影響で二人の対局が用意されたらしい。「ファンサービスというか」
 門脇プロが解説しようかと言ってくれるのを断った。綾香と一緒に、大盤解説を立ち見する。
「…結構、かっこいいかも」
 綾香が呟く。沈黙してしまった。ヒカルのことを言っているのだと分かった。分からない振りをしようかと思った。聞こえなかったことにしようか。
「あ、ごめんね、あかりの幼馴染でした」
「…別に、そういうのじゃないし」
 笑ってみせる。大盤に目をやったままの自分の横顔を、綾香は少し見た。
「あ、でもね、ヒカル全然かっこよくないよ。昔からの付き合いだから知ってるけど、乱暴者だし、あんまり人のこと考えないし…」
「……うん。そうかもね。ごめん、今のなしでよろしく」
 十数人の老人や、子どもの視線に囲まれて、ヒカルはパイプ椅子で塔矢アキラの前に座っていた。先ほどとは打って変わって激しいまなざしをしていた。本気のオーラが伝わってきそうだった。塔矢アキラも負けていなかった。碁の内容はよく分からないけれど、大盤解説の人は苦笑しながら、ちょっと二人とも喧嘩腰過ぎますねぇ、若いなぁ、ちょっとは解説する身になってほしいですねぇとぼやいた。
 塔矢アキラが少し肘を持ち上げて打った。ヒカルは膝の上で、似合わない扇子を強く握って、それから塔矢アキラを憎憎しく睨んだ。
(ヒカル全然…かっこよくないよ)
 嘘だ。


 帰宅途中の電車の中で、綾香からメールが来た。「ヒカルクンのことですが、本当にそういうのじゃない?」
 携帯電話をじっと見る。返事ができない。すると重ねてもう一通。「ごめん」
 …駄目。
 駄目。あれは私の。だってずっと好きなんだから。小学生の頃からだよ。あの頃ヒカルは全然、これっぽっちもかっこよくなかったんだから。本当に本当に子どもだったんだから。それでも私は好きだったんだから。綾香なんて。あなたなんて、今のヒカルのかっこいいところだけしか知らないくせに。いいところだけ見て、それで、好きだなんて、ずるい。ずるい。ずるい。

 ……だけど綾香は多分、自分より囲碁が強くなる。
 頭がいい。可愛い。
(私はずっと、好きなのに)
 それだけだ。自分にはそれだけだ。昔から好き? それが何。好きだった時間しか勝るものがない。そんなこと何の意味がある。それだけだ。昔のヒカルを知っている。だけど塔矢アキラは知らなくてもヒカルの特別だ。綾香は初対面でヒカルに褒められる。私なんかずっと好きだったのに。……なんて惨めなプライド。
「ごめん。私もごめん。私はヒカルが好きです。諦めて」
 送信。彼は自分のものでもないのに。
 定期入れから写真を取り出し、眺めるほどに辛くなり、破り捨てようかと思ったが出来なかった。結局元通りしまってしまう。…好きだと思った。今、ヒカルを、好きだと思った。
 綾香から、「そうか。頑張れ」と返信が来た。ついで、もう一通。
「今日は来てくれてさんきゅ。強くなってたじゃん。また打とうな」


 …無神経なところ、変わってないなぁ。
 そう思って、なんだか少し、報われた気がした。