ocean, wash your shoes, wish, shine my shirt

 憧れだったんだよなーっ。一度は真夏のクリスマス!
 はしゃぐ彼は、なんというか可愛かった。裏腹に、自分はとかく、南半球への旅路で体調を壊してはいけないとそればかり考えていた。
「ばかやろ、一生に一度かもしれないんだぜ?! そりゃあノースリーブミニスカサンタくらいなら今時日本でも珍しくねーけど!」
 生涯最初で最後、は正しいかもしれない。そう思うと、貴重な時間であることも頷ける。しかし子どもじゃあるまいし、いくら宿泊先がオーシャンビューのホテルとはいえ…持参するだろうか、マイ浮輪…
 しかも、その美しい白砂のビーチは一般遊泳禁止なのだった。許可を取ったダイビングならありらしい。言ってはなんだが、その事実はホテルのパンフレットに日本語でもしっかり明記されていた。楽しみにしていたわりに予習不足だ。
「ば、ばかやろっ。知ってたよ!これはプール用!」
 指摘にうっすら頬を赤らめ、彼はつんとそっぽを向いた。それではホテルのプールサイドで、ゆったりラグジュアリーにバカンス気分を味わうのかと思えば(…浮輪持参で?泳ぐ気満々じゃないか)、案の定。
「とーやーっ、浜辺行こうぜっ」

 …アキラはぱたんと文庫本を閉じた。ヒカルは椅子の肘掛け部分に、尻尾を振る犬のようにすがりついていた。
「こんなとこまで来て勉強すんなよっ。海行こうぜっ、海!」
 題名を隠すため、本を裏返してさりげなくチェストに置いた。読んでいたのはディケンズだ。
「構わないけど、町に出たいんじゃなかったのか? 薄着の女性サンタクロースが見たいんじゃ?」
「昨日ディナーショーで散々見たもん。でもやっぱイルミネーションは冬のが綺麗だな。冴え冴えしてさ。でもやっぱすげー新鮮!自分半袖なのにクリスマスソング聞くなんてさー」
 それからヒカルは立上がり、もう一度、海行こうぜと口にした。
「お前のそのオヤジっぽいポロシャツについては何も言わないでいてやるからさあ」
 むかっとしてスリッパの爪先でふくろはぎあたりを蹴り上げた。そう言うヒカルは原色を多用した派手なアロハシャツだ。夏とはいえ日本ほど、太陽は暴力的に照り付けない。それはそれで気候風土にそぐわないぞと言い返すと、クリスマスカラーだよ、分かれ!と怒鳴られた。
 サンダルにしようかと迷ったけれど、無難にスニーカーを選択し、ホテルのプライベートビーチへ下りた。贅沢すぎる状況に目まいがしそうだ。
 そう口にすると笑われた。スニーカーが数センチ砂に沈み、おかしな感覚。
「なーんか、全部が広いな。アメリカンサイズ?」
 アメリカはおかしいと思うが、言いたいことは分かった。空も海も、砂浜も広く、彼方には摩天楼が揺らぐ。
 日本は東京で生まれ育った身には、風景が広がる、という表現自体に、不思議な郷愁を感じるのだった。
 汗をかいている。空調の効いたホテルと違い、ここは夏の海。建物を振り替えると、その壁面にはクリスマスツリーを模して巧妙に配置された植物の蔓が絡まっていた。
 違和感を覚える自分がおかしくて、アキラは思わずほほ笑んだ。自分も大概日本の文化に毒されている。
「うあーっ、海だ海だっ」
 ヒカルが突然はしゃいだ声をあげ、うんと伸びをした。
 その様子が可愛くて笑ってしまった。
「海が好きなのか?」
「嫌いじゃないぜ。…バカだな塔矢。そゆことじゃねえじゃん」
 ヒカルは嬉しげに、クリスマスソングを口ずさんだ。うぃーうぃっしゅあめりくりすます…
「クリスマスもさあ、そりゃ嫌いじゃないぜ。けど別に何かあるわけでもねーじゃん? 俺別にキリスト教じゃないし」
 えんはっぴーにゅーいやー…
「うーんなんていうかさ…やっぱ人生にはたまのスパイス? 必要じゃん。わくわくしたいじゃん。楽しいし。たまのスリルとさ。……取り返しのつかないことは、要らないけど」

 イルミネーションにはやっぱり冬だとヒカルは言ったが、透き通った水にはやはり夏だった。
 おおすげー海の底が見えると呟きながら、ヒカルは波に靴が濡れるも構わない。いつだってこの一時は取り返しのつかない真夏のクリスマスだ。碁を打つだけの毎日を単調だなんて、そういうことじゃない。刺激的過ぎる日々に、たまの安息? バカだな、クリスマスって…

 ヒカルの言葉に振れる胸を笑い、アキラは彼の名を呼んだ。
「進藤」
「んー?」
「ホテルに戻ってセックスしようか」
 崩す波と崩れる砂に足を取られ、ヒカルは見事に遊泳禁止の太平洋で転倒した。