Sweetest!
「ふーっ」
いかにも疲れましたという具合に、進藤ヒカルがソファに身を投げ出した。
「お茶入れようか」
背の低いテーブルの上の碁盤を片付けながらアキラは言う。ファンヒーターで部屋の空気が乾燥しているようだったので。
「茶ぁ…は、いらね」
ヒカルは片手で目を擦っていた。もう三時間は二人で碁盤に向かっていた。
「なんか甘いもん欲しい。疲れたときにはトーブンホキュー…」
「糖分補給…?」
眠そうに要求するヒカルに、ぼんやり鸚鵡返し。
「…甘いもの…?」
「…うん、…甘いもん欲しい…」
言いながら、ヒカルは手だけソファの横で動かし、やがて、雑誌の山の上に投げ捨てられたテレビのリモコンを発見した。
テレビをつける。画像が鮮明になるより早く、大仰な男の声がスピーカーから飛び出して、アキラもなんとなく目をやった。
「・・・・・・・・・」
一拍置いて、ブラウン管に料理をする女性が現れた。テロップを見るまでもなく、彼女が大きなチョコレートケーキを作っていることが分かった。
単なる料理番組ではなくて、数人の女性がお菓子作りを競っているのだった。ゴールデンタイムらしく、膨大な資金をつぎ込まれた特別番組。
アキラはばかばかしくなって目を逸らす。ぷつりと音声が途切れた。ヒカルが電源を切ったのだった。リモコンをまた放り出したその手で、来い来いと手招きしている。
アキラはゆっくりと立ち上がり、テーブルを回ってソファに近づいた。
寝転んだままのヒカルに腕を捉えられて、抱き寄せられて折り重なった。
「…甘いもん、甘いもん」
ヒカルがぱたぱた足を動かしたので、アキラは蹴られないように少し体をずらさなければいけなかった。
「…甘いもの欲しいの…?」
「うん」
ヒカルが両手を伸ばして、さらさらの髪の毛を自分の頭の上で抱くようにした。アキラは、腕で体を支えるのが辛くなって、肘を折った。そうすると、ヒカルの顔がすぐ目の前にあったので唇を重ねた。
そのままでじっとした。
ヒカルも動かなかった。
キスに不慣れな子供がそうするように、ずっと呼吸を止めていたら苦しくなった。だから離れようとしたら、ヒカルが少しだけ舌を出して、乾いた唇を舐めた。
甘いかと問うと、うん、すげ、甘い。と、答えた。
二人のいるソファから数メートルのところに冷蔵庫があって、その中にはラッピングされたチョコレートが二つ無造作に入れられたままだ。
お父さんへのチョコを買うから、ヒカル、つきあって。幼馴染の藤崎あかりに、進藤ヒカルは百貨店の地下に連れて行かれた。いくつか試食させられて、結果選んだ値の張る洋菓子。今日のお礼にと渡された。
もう一つはアキラが貰った。父親経営の碁会所で。砕いたチョコレートを客らみんなに配っていた市河晴美が、帰りかけたアキラを呼び止めて、これはアキラくんに、とにっこり笑って。特別に。
「・・・バレンタインっていうのは、」
ヒカルが呟いた。「甘いもん受け渡す日だって」
アキラは頷いて微笑んだ。
「日本では特に恋人同士がね」
こんなにも残酷に幸せでいいのかと二人は思った。
思いながら世界で一番甘いキスをした。
無神経なその行為は甘すぎて、始めからないものさえ焼き切ってしまいそうだった。