春と修羅

 昨日白かった息が今日は見えない。
 柔らかい日差しがゆっくりと零れ落ちる花を包む。
 カーブミラーの反射光がアスファルトに描く円の上、小さな子供が不思議そうに足を踏み出す。
 母親の手によって端正に切り揃えられた髪を揺らして、見上げる花は三月の紅梅。
 同じくらいに、子供だった。


「5目半」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました。次からは置石減らすかー」
 ここ、アキラよく打ったよな。次でかわせたのに、右辺優先してしまったのが敗着だなぁ。
 湯飲みに手を伸ばし、お茶を飲む。対局相手の小学生は楽しそうに、ふふ、と少女めいた笑いを漏らした。実際この年頃の子供に、性別なんてあってなきが如しだ。
「おっとと…。そろそろ部屋移らなきゃ。お前も出るんだろ? 研究会」
 表の方で来客の物音がする。兄弟子たちが集まってきているのだ。現在の囲碁界の頂点にいると言って過言ではない、塔矢行洋名人の研究会。彼の息子であるアキラを除けば、今のところ、まだプロにさえなっていない芦原が最年少だった。
「どうした? 行かないのか?」
 碁盤と碁石を片付けても、動く様子を見せないアキラに問う。
「…うん。今日はやめておくよ。学校の宿題をやらなくちゃ」
「へぇ。そうか。じゃあまたな」
「うん、また打ってね、芦原さん。最近お父さんも緒方さんも忙しくて」
 言いながら、ほんの少し唇を尖らす。芦原は苦笑して、その頭を撫でてやった。
「そりゃあ仕方ないよ。ま、俺でよけりゃいっぱい打とうぜ」
「うん!」
 アキラの部屋を出て、研究会の行われる客間へと歩いていると、呼び止められた。塔矢明子だった。
「何ですか?」
 自分でもへらへらした顔になっているのが分かって、慌てて引き締める。
 この塔矢邸の女主人は、いつもマイペース、ついでに若く美しく、塔矢門下のアイドルだ。
「ええ、あのね、たいしたことではないのだけど。よければ少し様子を見ていて欲しくて」
 何のことか分からず首を傾げると、明子は困ったように微笑んで、親子喧嘩しているの、と言った。
「私じゃないのよ。あの人と、アキラさんが」
 驚いた。気難しく見えても、実はかなりの親ばかである塔矢行洋と、あのアキラが。
「アキラさんがね、先週くらいから少しわがままを言い出して、」
「わがまま?」
 更に驚いた。そして、わがままの一つや二つに驚かれる小学生というのも何者なのだ、と思った。しかし塔矢アキラはそういう子供だったのだ。
「そう、そうなのよ。それもね、あの人にね、棋譜を並べなさい、と言われて、突っぱねたのよ。驚いたわ。棋譜並べなんかやりたくない、それよりもお父さんと対局をしたい、と言うのよ」
 始めは困った様子で説明していた明子も、そのあたりで笑い出した。
「それであの人が怒って…というか、怒ったふりをしているだけでしょうけど」
 芦原も思わず笑ってしまった。
「なんだ、やっと反抗期かと思ったら、単に甘えてるだけじゃないですか」
「そうだと思うの。だけど、もし機会があればアキラさんから事情を聞き出しておいてくれるかしら」
 はいはい、と安請け合いをして、ついでに研究会メンバへとお茶を運ぶのを手伝った。
 なるほど、今日こちらに顔を見せないのもそのせいか。なんだやっぱり子供なのだと奇妙に嬉しく思った。でもまぁアキラは賢いから、すぐに地道な勉強も大切だと気づくだろう。
 にこにこと参加した研究会で、兄弟子の緒方にこてんぱんにやられた。惨敗だった。しかも緒方は辛らつだ。
「お前、この手はなんだ。これで凌げる相手なんてアマでも限られてるぞ。プロ試験に通る気があるなら、その意識の低さをどうにかしろ」
 遠慮のない言葉を、軽く受け流す振りをして、内心はぐっさり傷ついていた。そうだ、今年こそ、受からなければ。アキラの心配をしている場合じゃない。意識が低いの何だの言われようと、今はプロ試験というハードルを越えることだけが目標だ。

 十日ほど経っただろうか。芦原の携帯電話に、塔矢家からの着信が残っていた。怖い。俺何かやったかな、俺何かやったかな、と恐る恐るかけ直すと、明子だった。
「この間のことなのだけど、すぐ治まると思っていたら、アキラさんが強情で。困ってしまったの。やっぱり芦原さんから何か言ってあげてくれないかしら」
 ああはい分かりました。じゃあまたすぐ行きます、と答え、なぜ俺に、と聞いてみた。頼られるのはくすぐったいが、他の人たちと比べ、頼りがいあるという評価を受けたとは到底思えない。こういう相談は緒方あたりに振られそうなものなのに。
「だって、アキラさん、芦原さんのことはお友達だというのよ」
 明子夫人は楽しげに答えた。友達、友達。
 以前アキラ本人の口からも聞いたことにある単語だった。あれは4月で、雨の狭間。アキラが言った。大人びた口調で。あのとき、濡れた桜の樹の幹がとても黒々しかったことを覚えている。
「芦原さんとはいい友達になれると思う」——苦笑して答えた。「お前なぁ」
 アキラはきょとんとしていた。自分の苦々しさの意味になど気づかず、桜を踏みしめていた。
 芦原さんのことはお友達だと言うのよ。

 翌日はデートだったので、塔矢邸を訪れることは出来なかった。翌々日、ふらりと立ち寄る体を装い、呼び鈴を押した。
 研究会じゃない日に来るなんて珍しいね。そう目を丸くするアキラに、おどけて、「王子様のご機嫌を伺いに」と答えてみた。するとアキラは微妙に目を逸らした。事情を察したようだった。聡い子供だった。ほんの少し、可哀想に思え、打とうかと誘うと途端に目を輝かした。
「うん。嬉しいな。僕最近、一局でも多く打ちたくて仕方ないんだ」
「どうして?」
 石を置きながら何気なく尋ねた。アキラは一瞬、盤上のその黒の置石を、まるで親の敵を見るように見て、それからいつもの朗らかな顔つきで笑った。
「一局ごとに自分が強くなるのを感じるから」
 先ほどの刹那の視線と、その言葉に、感じた哀れみなど吹き飛んだ。代わりにきっと、恐怖さえ感じた。
「…伸び盛りなんだな。アキラは、今が」
 努めて、軽く言い捨てた。最後の音が消えた後も、その響きの中に、何某かの皮肉や、醜いちっぽけな己がいないか疑ってしまった。置石を一つ減らしたのに、その時もわずかに負けた。
「外に出ようぜ」
 終局後、そう誘った。「少し暑いけど、たまにはいいだろ。優しいお兄さんが何か買ってやるよ」
 もしかすると、迷惑そうな顔をさせてしまったかもしれないが、それすらも錯覚だろう。塔矢アキラは誰に対しても、少なくとも表向きには常に素直で優しく、穏やかだった。
 二人で家を出ると、初夏の日差しは思った以上に厳しかった。自分もそうだが、アキラも大概引き籠りがちで、生白い肌をしている。学校の体育の授業はどうしているのかと思わず茶化し、少しむくれられた。笑ってしまった。
「何か欲しいものあるか?」
 デパートにでも連れて行くか、アイスくらいなら…いいや、ケーキとお茶くらいなら奢れるかな。そう思ったのに、アキラは首を傾げ、思いつかない、と言った。対局以上のお望みなど、この世には一切ないらしかった。
 半ズボンから出た膝小僧が、日の光に照らされていた。そんな足でアスファルトの道路を歩く。初めて会った頃のことを思い出す。
「あのね」 不意にアキラが口を開いた。「ごめんなさい」
「…何が?」
「お母さんに言われたんでしょう? 迷惑かけてごめんなさい」
 芦原は肩をすくめようとして、なんだか芝居がかった動作だと気づいて止めた。
「どうってことないよ。一番年の近い友達、だしな」
「うん…」
「棋譜並べしたくないってわがまま言ってるらしいじゃん?」
「うん。まだうまく、自分でも、言えないんだけど、」
 自動販売機があったので足を止めた。炭酸は苦手、甘さのしつこいジュースも好きじゃない。王子様の好みは難しい。
 結局、スポーツドリンクを二本買った。ありがとう、とアキラは受け取ったが、数度口を付けただけで飲まなくなった。これもあまりお気に召さなかったらしい。しかし、貰ったものだからと、両手でしっかり持っているその様子は可愛かった。
 近くのバス停に誰もいないベンチがあったのでそこに座った。アキラは少しずつ言葉を考えながら話をした。
 僕の小さい頃に、お父さんのお父さんの…僕のお祖父さんの、お葬式があって、僕は本当に小さかったからあまりよく覚えてもいないんだけど、でも、たまに思い出して、その時の気持ちに似てるんだ。
「…何が?」
 アキラは言いよどんでいるのか、しばらく沈黙した。そしてまた説明し始める。
 棋譜を…並べるとき。お父さんは、昔の人の棋譜を見て勉強しろと言う。それから、お父さんのついこないだの名人戦を並べるのも良いと言う。僕は言われた通り、秀策を並べて、お父さんの碁を碁盤に再現して…………そして怖くなる。
 アキラの声がわずかに震えて、泣くのかと思った。慌てて横顔を見たけれど、泣いてはいなかった。ただ、やっぱり、親の敵を見るような鋭い目で、じっと、日の照り返す地面を見つめていた。
 お父さんのお父さんが…亡くなったときの、お父さんの顔を覚えていない。だけど今でも、考えると怖くなるのは…いつか僕も、同じなんだ。
 秀策の碁も、お父さんの碁も、凄いのはもちろんだけれど、僕が並べるときはいつだって終わっている。秀策の一手を学んでも、僕は秀策を知らない。同じように、いつか、お父さんの一手は残っても、お父さんは、いなくなるんだ。同じなんだ。こんなにも遠い。怖い。怖くなると、もう、棋譜並べなんかやってられなくなる。棋譜を並べるだけならいつだって出来る。そうじゃなく、そうじゃなく、僕は打ちたい。今、一局でも多く、今、今、対局相手のいる今この瞬間に僕は打ちたい。同じ時代に生きている、今。
「———みんな、先を行っているんだ」 アキラはぽつりとぽつりと呟いた。「みんな先に生まれていて、僕はまだこんなにも子供なのに、あんなにも先を歩いていて、僕には後姿しか見えない」
 残されたものしか、見えない。
 …停留所にバスが来た。年配の女性がのんびり降車してくる。芦原たちが乗り込まないことを知り、バスはまた走り出す。芦原は、喉を潤して次の言葉に備えたけれど、アキラはそれきり黙ってしまった。
「そんなもん…」
 だから口火を切ったのはいいが、その後が続かない。
 ならば、自分と…とは、言えなかった。自分と打てばいい、などとは。
 自分には、アキラが見ている、先人たちのその後姿すら見えない。
 自分はアキラの言う「対局相手」に含まれていない。
 追われていない、自分から追ってさえいないのに。
「…アキラ…やっぱり今年、プロ試験受けようぜ…」
 芦原に言えたのはただそれだけで、そのとき不意に、前のデートで彼女の持っていた詩集の一節が頭に浮かんだ。
 選ばれてあることの恍惚と不安——
 今のままでプロの世界に入ったとしても、アキラは変わらずに孤独だろう。不安を、ごまかすことは出来ても、消し去ることはないだろう。可哀想だと思っても、その同情に浸りきることは出来なかった。自分の中の、ほんの少しのプライドが、アキラへの嫉妬や、緒方への反発になって、沼のように、淀む。


 ヒロくん、今年は受からなきゃね。
 彼女がお守りを買ってきてくれた。
 うん——受からなきゃな。
 彼女の言葉が、たとえば金銭的な、または社会的な危惧から出たものではないと分かっていた。
 受からなければ、自分はいつまでも、その先に進めない。見ることさえ出来ない。
 才能ある人間と比べても仕方ない、自分はそのように歩むしかない。
 頑張ってね。
 彼女が言った。
 頑張るよ。
 心の底からそう答えた。
 彼女は私立大学の仏文学科に籍を置く学生だ。時に眩しい。あの日の塔矢アキラのように。
 ヒロくん。彼女が呼ぶ。
 弘幸。両親が。
 芦原。緒方が。
 芦原くん。塔矢行洋が。
 芦原さん。———そして、一緒になって梅を見上げた、もういないあの頃の小さすぎる子供が。


「アキラぁ、受かったぜーっ」
 深夜、あまり品がいいとは言えない繁華街の片隅で、いまさらのように電話をかけた。
「うん、棋院の人に聞いたよ。おめでとう。でも酔ってるでしょう? そのままでお父さんに報告しちゃ駄目だよ。叱られちゃうよ」
「お前なぁ…こんな日にまで細かいこと言うなよ〜」
 言葉の途中でしゃっくりが出て、アキラの言う通り、自分がしたたか酔っ払っていることに気づく。
「うん。だからおめでとうって」
 電話の向こうでアキラが笑って繰り返した。安い酎ハイを何杯も流し込んだ自分と比べ、その声はあくまで清々しかった。
「アキラもなぁ…今年一緒に受けりゃよかったのに…」
「それは何度も聞いたよ」 まだ笑っている。
「また、ね。また次の機会に必ず受けるから、待っててよ、芦原さん。僕はまだ勉強不足だし、そんなにせっつかないでよ」
 笑っている。待っているのは自分だろうに。来るかどうかも分からない王子様—いや、お姫様かな?—を待って、またとんと聞き分けのよい、素直な子供の皮をかぶり直して、その中ではあんな目をして、もうすっかり、修羅の目をして。
「アキラ、お前はなぁ…」
 携帯電話に、ろれつのあやしくなった言葉をぶつける。
 頭がふらふらしてきた。
 恍惚?
 不安?
 選ばれて…選ばれて?
 誰が。
 誰が選ばれて…誰が選んだというのだろう。
「お前は…天才だよ。ちくしょう。選ばれし勇者だよ。おい、ゲームとかしたことあっか?」
「何言ってるの芦原さん。本当に酔ってるんだね」
 お前を選んだのは、お前だ。
 選ばれたんじゃない、選んだんだ。
 お前が1人で、選んだんじゃないか。
「逃げんなよ。勇者はなぁ、世界を救うために旅立たなきゃいけないんだぜ?」
 囲碁を、お前が選んでいる。こんな真夜中、何をやっていた? 対局を、していたんだろうに。姿かたちのない、大昔の、誰かと。
「それでも、それでも俺はお前の友達だよ。お前なんかの友達だよ、俺は。ずっとそうだよ。友達でいてやるよ」
「……うん」
 今日の最後の一局を思う。プロ試験本選最後の一局。自分は勝ちを決め、かろうじて勝利を手にし、来春からは棋士となる。彼よりも、少し先に。
 ちくしょう、ちくしょう、と、酔っ払いは何度も呟いているようだった。そんな自分をやけに遠くから眺めていた。律儀に相槌を打つアキラの声はクリアだった。すべてを受け入れた静かな声で、その事実を肯定していた。うん、うん、そうだね。そうだね、芦原さん、そうだね…。悪態を繰り返す自分に、優しいその声はそしてありがとう、と続けたのだった。
 ありがとう、芦原さん。
 ————————涙が出た。