Ankle Strap-less

 電車の中で、学習塾の夏期講習に向かうらしい小学生たちが、大声ではしゃいでいる。誰も注意しないから誰も気づかない。冷房が効きすぎる車内、生白い少年たちのいたいけな裸足はごついベルトのサンダルで甲や足首がしっかり固定されている。ハーフパンツから覗く柔らかな曲線のふくらはぎ。
 小学生か、中学生の頃の進藤ヒカルを思い出した。
 といって、その頃、夏の私服の進藤ヒカルを目にしたことなど数えられる。出会ったのは冬だ。小6の冬。
(ネットカフェ…くらい、か? たった一度?)
 思わずくすり、思い出し笑いが漏れた。
 中学1年の夏。ただ一度だ。
 中学2年の夏。彼はプロ試験を受けていた。
 中学3年の夏。すでに彼は成長期を迎えていた。

 電車がカーブにさしかかる。わざとバランスを崩し騒ぐ子どもたち。横で転寝していたサラリーマンが、驚いたように目を覚ました。
 不躾に人の顔を見る習慣はなく、また自分は座っていることもあり、電車の中のいろいろな足もとが目に入る。力を込めればすぐに折れてしまいそうなやわな足首、掌に収まりそうなふくらはぎ。少年の弱さを拘束する安っぽいサンダルのストラップ。
 駅に着き、小学生とサラリーマンは降りていった。空いた車内に、激しく冷やされた空気が巡る。

「あれぇ? 塔矢くんだぁ」
 そのとき目の前から個性的な声がした。顔を上げると、ふくふくと幸福そうな顔をした学生が立っていた。
「……ええと、」
 誰だっただろう。微笑と苦笑の中間地点で表情を探していると、彼は横の座席に跳ねて座った。
「院生の福井だよぉ。塔矢くんもプロ試験だったとき、ちょっと話したよね」
「え、あ、……そうだったかな…」
 思い出せない。随分と昔の話だ。中1の夏の話だった。
「うん。僕は今年もプロ試験だけど」
 細い目で、情けなさそうに彼は電車の天井を仰いだ。「ずっと足踏みだよー」
「………頑張って」
 他に言葉が見つからず、当たり障りのないエールを投げた。
「うん、ありがとうっ」
 にこにこと素直に礼を返され、逆に少々罪悪感を覚えた。
「塔矢くんも防衛戦頑張ってね。あ、でももう決まりかな。進藤くんも頑張ってるけど、ストレート負けかぁ…」
「それはまだ…分からないよ」
「うん?」
「進藤も……まだ強くなるし。もっとも、それは僕も……」
 ぶらぶらとサンダルを履いた足を揺らし、院生だという彼は疲れた溜息混じりに愚痴を零した。
「進藤くんも塔矢くんも、もう、なんか、それ以上強くならなくっていいと思うなー…」
 日に晒されず白い、ぽちゃぽちゃと柔らかい、足をぶらつかせる。
「……そんなことないよ」
 頭を振り、そっと否定した。「……プロ試験頑張って」
 電車が止まる。弱気をシートに置き去るように勢いつけて、彼は立ち上がった。
「うん、ありがとうっ」



(お前なんかもうそれ以上強くならなくたっていいんだよ)

 当時の彼に、進藤ヒカルに、直接口に出されそう言われたことはない。
 自分が強くならないと本当の強さは分からないし、そして弱さにも気づかない。
 後ろから近づく足音を振り切るために、全力疾走したことはあっても、立ち止まり振り返ったことはない。
 また彼も、そんなこと望んではいないだろう。
 定点観測するからいけないのだ。あるひとときの誰かを見据えればそうなってしまう。
 そこで、その場所で、変わらずにそこにいろと思ってしまうから。
 自分は変わるけれど人には変わってほしくない。



 仕事を終え、待ち合わせの場所で十数分。自分を待たせるとはいい度胸だと、目が据わってきた頃進藤は現われた。
 前々日にあった国際戦で、彼は負けたがまた強くなった。その検討と、自分のタイトル防衛がかかった前哨戦を、彼が一人暮らしするマンションで行った。
 棋士仲間が聞けば、とんでもないと叱咤されるだろう。学校の囲碁部や囲碁教室の友達ではあるまいし、プライベートで気軽に打ち合うとか、そんな関係ではないはずだと。少なくとも今は。

「今日電車で、院生だという子に声を掛けられたよ」
「へえ?」
「僕や君は、もうこれ以上強くなる必要はないと」
「……なんでそんな突っ込んだ会話になるわけ」

 まったくだと同意し、少し笑えた。前哨戦は、二目半、負けた。

「悔しいな。僕はもっともっともっと強くなりたい」
「ああ、お前はどんどん強くなればいいよ」
 何ということもなく進藤は頷いた。
「…余裕じゃないか、挑戦者」
「俺ももっと強くなるからさ。お前がそのままだと簡単に追い越しちまうだろ」

 変わらないものはもういない人だけでいいと彼は笑った。
 少し胸が妬けて、碁盤の横に押し倒した。くすくすと笑うその体の衣服を剥いで、いっそグロテスクなほど成長したその脚の確かさに欲情した。
「やけに積極的じゃん」
 やがて仕返しのように押し倒されて、無防備な足首を掴まれた。
 生温い舌の感触が足指を這い、背筋を震わす快感に目を閉じた。






 中1の夏。



 記憶の中、広すぎる未来を持ったただの小学生、ただの中学生、ただの進藤ヒカルが夕暮れの中に立ち止まる。
(いつかと言わず、今から打とうか?)
 返す言葉を持たず、踏み出す一歩の力も足らず。


 夕暮れの街。君はその場所から駆けてきた。
 君のあるべき場所が僕の前なら、そこはすでに定まらない長き道の途上。


 知っている。




 君の足を縛るものはもう何もない。