Today's Special 〜a piece of luck〜

 進藤の天元戦を見に淡路島まで来た。自分のタイトル戦だけでなく、彼のそれまですべて追うとするなら、まるで日本縦断だ。諸国漫遊だ。さすがにそれはできないので、時間を割けるときは多少無理をしてでも追いかけた。そんな第四局目。打ち掛けの時間、一人でホテル近くの和食の店にまで足を延ばすと、なぜか棋院職員と顔を合わせてしまった。関係者との遭遇が嫌で、ホテル内のレストランを避けたというのに無駄足だった。相手は喜んで会話を持ち掛け、そして食後、煙草の箱を傾けた。
 自分は日常的に煙草を吸うわけではないけれど、幼い頃から碁会所に行きつけていたこともあって煙には耐性があった。もちろん対局中、そして前後には決して吸わない。それで頭がクリアになるという感覚は分からないし分かりたくない。しかしそれ以外では、勧められれば一本くらい付き合うこともある。
 そのときもそうだった。煙を吸えば口を塞げると、そんな打算だったのだ。
 言葉数少なく、連れだって対局場のホテルへと戻った。ロビーで足を止めた自分に、彼は不思議そうな眼差しを向けた。
 吸い終わってから戻ります。そう告げると納得したように頷き、先にエレベーターへ乗り込んでいった。
 喫煙スペースのイスには腰掛けず、磨かれた柱に背を預け、ゆっくりと細く煙を吐いた。火のついたままの一本を指に挟んだまま、スーツの袖を捲り時計を確認した。対局開始まではもう少し余裕があった。

 進藤挑戦者は現在一勝二敗。今日を負ければ今期の天元戦は終了だ。午前中傍で見ている分には、いかにも白番の彼が悪い。先ほどの男も、暗にそのようなコメントを求めていた。
 さて、どうだろう。アキラは盤面の石模様を脳裏に思い描きつつ、ホテルの外をぼんやりと眺めた。煙草の先から薄い紫煙が湧いて、清潔なロビーの空気をほんの少し濁らせ揺らす。
 どんなに冷静な目で戦いを眺めようと、口も手も挟めない第三者であることに変わりなかった。十九路に向かう二人とは、見えているステージが違う。一手の、その深さの、意味が違う。
「誕生日おめでとう」
 エントランスのガラス越しに、薄曇りの暗い空をぼんやり眺めていると、急に顔を覗きこまれて呆気に取られた。
「……何だって?」
 不本意ながら動揺した。まだ幾分長さの残っていた煙草を、設置された灰皿に強く押しつけてしまった。灰を落とすだけのつもりだったのに。
「おたおめ、おたおめ。違ったっけ? 今日だろ?」
 ふざけた言い方で、紺のスーツ姿の進藤は首を傾げた。なかなか背が伸びない彼は、相変わらずネクタイが似合わない。
「というか君、なぜここにいる。食事は」
「食べたよ。うまかった」
「それならさっさと対局場に戻れ」
「何だよ、対局者はリフレッシュしちゃ駄目なのかよ」
 背広の内ポケットから、そう言いつつ取り出すのは甘いミントのタブレットだった。手のひらに軽く振ると、転がり出してくるピンク色のいくつか。
「あ、ハートが出た」
 嬉しそうに彼は呟き、「見て見て」と手を差し出した。
「見た」
「ラッキーだな、縁起いいじゃん。勝つかもよ、俺」
「安いラッキーだ」
 もう一度腕時計に目を落とした。自分でも神経質な仕草のようで頂けないとは思ったが、のんびりとどっかりと、イスに体を埋めた進藤に焦りを感じた。
「五分前には行くから、大丈夫だよ」
 進藤はネクタイを緩めようとしたのか、ノットに指をかけた。しかし触れただけで手は下ろされた。締め直すのが面倒だと思ったのだろう。自分ではまだ完璧に結べないのかもしれなかった。そしてホテル内の空調は快適といえ、今は12月。問答無用で冬と言って差し支えのない季節なのだから、普通にしていれば暑さなど感じるはずもなかった。
「ああ、スーツって肩凝る」
「いい加減慣れろ」
「暑いしさ」
「上着は脱げばいい」
「汗がなぁ」
 進藤は笑って、ふっと息を吐いた。一人掛けの椅子のアームレストに両腕を預け、体を伸ばしながらほんの少し上向いた。
 その視線は天井のシャンデリアも何も透過して、自分には見えないステージを見つめた。一瞬。

「まぁ、ピンキーのハートとかピノの星とか、そんなの一つで買えるほどお手軽じゃないよな、白星は」
 よく分からない喩えでもう一度笑って彼は立ち上がる。
「ほら、誕生日プレゼントにお前にも。煙草の口直しに丁度いいだろ」
 タブレットのケースを傾けられて、反射的に右手を差し出してしまった。手のひらに小さなピンクがいくつか落とされた。軽く指を曲げそれを落とさないように握る。進藤はケースを内ポケットに納めてから、こちらの左手首を急に掴んだ。
 何だ、と言う前に袖が捲られて、時計の針を読まれた。
「おっし、いい時間。そろそろ行くか」
 そして軽い嫌がらせのように、止まったエレベーターに一人乗り込み扉を閉めた。
 ゆっくり見送り、次の一基を待つ。その間に、ピーチミントのタブレットを口に放りこもうとして気づいた。一粒、ハートの形をしていた。
 どれくらいの割合でそれが入っているのかは知らないけれど、先ほどの彼の様子からして珍しいのだろう。一つのケースに二粒とか、そんな安上がりな幸運で担げるゲンもないだろうけれど。

 ハートもろとも舌の上に転がした。エレベーターが軽やかに到着してチンと音を立てた。口に残った煙草の苦みを、ミントの味が混ぜて溶かす。
 そうして、口も手も塞がれた不自由な対局場に一人、また戻った。
 誕生日プレゼントには当然、プライスレスな彼の白星を貰うつもりだった。