Today's Special 〜stone light〜

 例年この時期から、碁会所の碁石・碁盤の手入れを始める。綺麗にした棋具で新年を迎える。常連の客たちが手伝いを申し出てくれるのを丁寧に断り、自分たちで石を一つずつ清めていく。
「それにしてもいくらなんでも、今日から来てくれなくて良かったのに」
 市河が、やわらかい布で白石の汚れを拭き取りながら、今更のように呆れた声を出した。
「別に。特に予定もないし」
「私は助かりますし嬉しいからいいけど」
 アキラは、折りたたんだ携帯電話を机の脇に置き、シャツごとセーターの袖を捲り上げた。予備の碁石はすべてガラスなので、水洗いをする。そちらはすぐに終わるので、一石一石拭くしかないハマグリ製の白石と、黒石に取り掛かった。
 艶の消えた黒石は、少量椿油を染み込ませた布で拭く。碁盤、碁笥も同様。181、180子の碁石が何組もあるのだから、当然一日では終わらない。(碁石の数は大分不足しているが)
 今日を皮切りに、年末に向けて何日も費やす作業だ。
「…ケーキ焼いてきたから持って帰ってね」
「毎年ありがとう」
 アキラは微笑んだ。今日は、誕生日だ。
「でも本当は、予定あったんじゃないの」
「どうして?」
「市河さんを見くびらないの。アキラくん、前まで携帯電話なんか持ってても全然意味なかったのに」
 机の上に置き、ちらちらと視線をやってしまうのを、気づかれていたらしい。
「凄い。目ざといね」
「…彼女できたんだ?」
「そういうのじゃないよ」
「嘘。隠さなくていいじゃない。もう二十歳なんだもんね。早いわ」
 しみじみと市河は天井を仰いだ。
「いくつになっても、市河さんや芦原さんは大事な友達だよ」
「あまり女の子に向かって言う台詞じゃないわね。まぁ、さすがに『女の子』は我ながらキツイか」
 市河は、慣れた仕草で碁石をまた一つ布に包む。
「…十年くらい前なら、そこに緒方先生の名前が入ってたんじゃない? 芦原さんの名前もそのうち消えるかもしれないし」
 優しく丁寧に拭いて、次の一石を。
「でも、私だけはずっとそのままね。少し寂しい気もするけど、…嬉しいわ」


 五時には暗くなる冬の季節。アキラはコートのポケットの中で携帯電話に触れたまま、碁会所を出て家路に着いた。電話もメールも着信はなく、いつまでも静かにじっと、大人しい携帯電話だった。もう片手には、ケーキの箱を提げた。
 …別に。誕生日なんて。
 特にたいした価値もないはず。予定だって特に入らなかった。休日になったのは偶然にしても。
 ぽつりぽつりと街灯が光を落とす夜道。アキラは携帯電話を取り出して、片手で開き、新着メールを問い合わせてみた。数秒で愛想のないメッセージが表示される。「新着Eメールはありません」。
 歩きながら、意味なく携帯を操作した。受信トレイに入っている最後のメールは、十一月のものだった。進藤ヒカルからの、誕生日の「た」の字もない用件のメール。
 …知らない、わけはない。知っているはずだ。覚えていない可能性は大。欲しいものを聞かれたこともここ数ヶ月ないが、これは当然といえば当然。
 まあ。別に。誕生日なんて。
 一年三百六十五日中のたった一日で、人の気持ちを推し量ろうなんて、あまりに不公平で他の三百六十四日に失礼な話だと思え。
 と、自分に言い聞かす。
 だって実際そうじゃないか。普通に地道に過ごしてきたその他の日々が、たった一日でひっくり返るなんてわけがない。
 ため息をついて携帯電話をポケットに滑らせた。と、そのとき、突然ピピピと音を発した。
 どきりとして、慌ててまた取り出す。電話だった。
「…もしもし」
「こんばんは」
 含み笑いと、そぐわない挨拶。「…こんばんは。何?」
「お前、ストーカーとかに尾行されても気づかないタイプ? それか、俺が気配消すの上手なのかな」
「………」
 アキラは振り返った。三つ後ろの街灯の下に、ヒカルがいた。
「いつから…」
「俺はロータリーで後姿発見したぜ」
 まだ、電話越しに声が聞こえる。アキラは我に返って通話を切った。ヒカルが近づいてくる。携帯電話のストラップを指に引っ掛けた片手。そしてヒカルのもう片手は、アキラが持つケーキの箱以上に、素晴らしく誕生日らしいもので埋まっていた。
「…さぞ、電車で目立ってたろうね」
「もう、大目立ち。どこ歩いてても悪目立ち。気づかないのはお前くらいだったんじゃね?」
 白い冬薔薇と明るい黄色のフリージア、の、花束。
 冬の夜、濃さを増す蒼い街の中、まるで輝くように明るい。
 その道路はすでに二人の姿しか見えなかったが、さらに細い路地に入り込んだところで、花束を掴んだままのヒカルの腕が、アキラの頭の後ろに回った。引き寄せられて、キスする。
「誕生日おめでとう」
 耳元で、花束のセロファンががさがさと音立てた。「でも花はオプションなんだぜ。プレゼントはこっち」
 携帯電話を入れたコートのポケットに、何かの重みが加わった。
「何?」
「お前の大好きな石っころ。今日も、磨きに行ってたって?」
 ヒカルは笑ってもう一度キスした。アキラは、すぐにポケットからプレゼントを取り出した。リボンや包装紙、外箱はなかった。掌にすっぽりと入る、真紅のビロード貼りの小箱は、どう見ても。
「…石ころ、って、」
「二十歳だし」
 先ほどまで歩いていた少し大きな道路を、車が走っていった。ライトが一瞬、近くを照らした。
「二十歳、って、言ったって」
「うんまあ、気持ちだけだけど」
 ヒカルは、心持ち照れた様子でアキラの頭を抱きかかえた。
「結婚しよ」


 君は馬鹿か、という言葉を、何とか喉元で飲み込んだ。冷たい流水に浸したガラス碁石の感触、まろみある流線型を見せる貝殻の白石。大好きな石ころの輝きと、市河の微笑みが蘇った。
(私だけはずっと、このままね)
 ずっと、永遠。最初から最後まで、友達なんてカテゴリにその名を見かけたことのない男。
「…馬鹿…」
 飲み込んだはずの言葉が、舌先から転がり落ちた。