アカネ

 この世界を一歩抜け出ると、軽いカルチャーショックに眩暈がする。
「進藤君、高校生? 違うの? フリーター? キシって何? え? 囲碁!?」
 地味で年寄りくさい、何だって囲碁? フリーターの方がまだましじゃない? 言外にそう訴えられて苦笑する。
 初めは言い返していたけれど、最近は聞き流すようになった。一々気に留めていてはこちらが追いつかないくらい、世間の碁に対する評価は低い。
 自分だって小学生の頃は、碁なんてこの若さで、と思っていた。
 藤原佐為と塔矢アキラに出会わなければ、まさか、プロになるなんて。

「…誰かと会ってきたのか?」
 帰宅して、ブルゾンをソファの背に投げかけると、そこに座っていた塔矢が言った。
「なんで?」
 とりあえず聞き返すと、塔矢は少し口篭もった。わざとらしく、新聞に目を落しなどする。
「…香水のにおいがする、から」
「あ、そうか?」
 自分では分からなかった。「あかりんちに行ってきたんだ。今度高校の大会あるっていうから、指導碁。タダで、だぜ? ったく、いくら幼馴染っつったって…」
「どうせ夕食も食べてきたんだろ」
「食後酒までばっちり」

 自分だけでなく、藤崎あかりまで、こんなに長く碁を続けるとは思わなかった。
 高校に入り、あかりは一段と女性らしく成長した。学校でもよくもてるらしい。いつの間に色気づいたのか、今日も、石を挟む短い爪にはマニキュアが塗られていた。
 さすがにそれには呆れさせられた。少し暗く、沈んだ赤色。彼女にしては背伸びした色味だと思った。
 ——今思うと、あれは自分に会うために塗ったのかもしれない。

 塔矢は乱暴に新聞を裏返した。
 思わず声を出して笑うと、その新聞をぶつけられた。勿論痛くも痒くもないが、折りたたむのは面倒だった。
 どうせならと、手前の一枚を、大きな紙飛行機に折ってみた。
「何子供みたいなこと…」
 塔矢が馬鹿にしたように言う。
「子供みたいに妬いてんのはそっちじゃん」
 軽く告げて飛行機を飛ばした。
「自意識過剰」
 そう吐き捨てて、自分の部屋へ入っていこうとする塔矢を呼び止めた。
「拾ってくれよ、それ」
 塔矢は一秒ほど逡巡し、それから不機嫌な顔のままで身を屈めた。
 拾い上げた紙飛行機を手渡そうとするその指を掴んだ。
 飛行機がざわざわと悲鳴を上げるのを無視した。
 塔矢の手は自分と比べてとても白い。手首は驚くほど細い。人差し指の爪は磨り減り、お世辞にも美しいとは言い難い指先なのだ。

 足もとに新聞が散らばる。一枚はくしゃくしゃになって、蹴飛ばされた。
 政治も経済も社会の出来事も、本当はどうだっていいくせに——
 地味な遊びだって、年寄りの暇つぶしだって、恋に色づくことがなくたって、こんなにも一途に、こんなにも懸命に、迷いなく突き進んでいる奴がいる。
(お前とか、あいつとか、)

「…ボクは別に怒ってはいないし、仮に怒っていたとしても、それをキスで誤魔化されるのは不愉快だ」
 目の縁をわずかに赤らめて、塔矢は顔を背けた。
 絡ませた指に力をこめながら、自分はいつまでも言葉足らずだ。
「………そんなんじゃねぇよ」
 本心はこの指づかいでしか表せない、子供みたいな二人だった。

 アカネ。忘れるのではなく横目で羨むのではなく————
 今自らの立つこの世界に、飽くことなく口付けたいのだ。