坊ちゃん其れは濃いですよ

 塔矢アキラは、市ヶ谷駅近隣にマンションの一室を借りている。その噂が広まった当初、すわ結婚か、女を囲うか、と五月蠅かったものだが、最近はそれも沈静している。手合が詰まっている時期などの別宅、研究会の会場、として利用しているらしい。
 緒方が訪れるのははじめてだ。
「いらっしゃい。すみません、散らかってます」
 呼び鈴に応じて扉を開けたアキラの顔、目の下には、濃いクマができていた。
「…やつれてるな。寝てないだろう」
「意外と何とかなるものですね」
 部屋に通されると、言葉のままにひどい有様だった。珍しい。家具はほとんどない。しかしフローリングには足の踏み場もないくらいのFAX用紙、原稿用紙が散らばっていた。
「…修羅場中とは聞いていたが」
「僕のせいです。完成間際になって、どうしても解説を差し替えたい部分ができてしまって」
 塔矢邸にはFAXがない。だから、ここ半月ほどアキラはこちらに籠りきりらしい。出版を控えているのは、前年度の本因坊戦挑戦手合の一冊だ。監修のみならず、ほぼすべての原稿を彼が書いているらしい。
 桑原名誉本因坊からタイトルを奪った、そのときの挑戦者の名は言うまでもない。
「コーヒーでも?」
「いや、結構。先生からの土産を預かってきただけだからすぐお暇する」
「まあそう言わず。僕が飲みたいんですよ。付き合ってください」
 部屋の隅には、店屋物の丼の空椀が転がっていた。誰かが差し入れたらしい、コンビニの弁当の残骸も。
 以前の塔矢アキラは、コンビニ弁当というものを半ば嫌悪していたと言っていい。追い詰められると人は変わるものだ。
「かなり根を詰めているようだな」
「おかげさまで。名局にふさわしい一冊になりますよ。保証します」
「それは結構だが、そんななりで本業の方は大丈夫なのか? 来週は…」
 大きなマグカップでコーヒーが運ばれてきた。北欧童話の妖精のイラストがプリントされたカップは、いかにもチープだ。なみなみと注がれたコーヒーに目を落とし、緒方はしばし沈黙した。濃いのだ。尋常ではなく。
 真っ黒な水面はいっそどろりと粘着質でさえある。インスタントなのは文句もないが、湯との配分が知りたい。
 運ばれてきたのはマグカップだけで、当然のように砂糖もミルクもついていない。緒方も普段ならブラックだ。しかしながら。
「…来週は、彼とです」
 その、殺人的な濃さのコーヒーを、アキラは音を立てて啜った。
「負けません」
 目の下のクマが危険に陰り、今にも倒れそうにやつれた体で、アキラはくすりと微笑んだ。