親愛なる夏目漱石様

 基本的に自分の「うっかり」は許せないタイプだ。コピー機の中に棋譜を忘れてきたり、バスに傘を置き忘れたり、そういうミスはしたくないと思っている。無意識の産物は恐怖だから。だからその日の打ち掛けの時間、進藤に無理矢理連れていかれた喫茶店で、コーヒー代を払おうとしてひやりとした。
「…あ、れ…」
 普段からあまり荷物は持ち歩かない。外出の目的が手合だけなら、カード数枚と薄い札入れだけを、ポケットに入れておけば事足りる。…その、札入れがない。
「……すまないが財布を忘れてきたようだ。千円貸してくれないか?」
 よりにもよって進藤にそう頼むのは、非常に、非常に屈辱だった。大体、彼に誘われなければ金が必要になることもなかった。
 進藤は、絶対返せよ? と、これまた屈辱的な確認をしてから千円札を一枚出してくれた。お釣りはその場で返そうと思ったが、ややこしいからと断られた。
「家に忘れてきたんだろ? なら念のため小銭持っとけよ。使うかもしんねえし」
「……ありがとう」
 彼の言葉通り。帰りの電車でICカードのチャージが切れて、切符を買う羽目になった。何かと頂けない一日だった。対局は勝った。
 数日後碁会所で千円を返そうとした。進藤は、差し出された札を一瞥した。
「旧札がいい」
「は、」
「野口英世じゃなくて、夏目漱石がいい」
 訝しく思いながら、財布の中の他の千円札を確認したが、すべて新札だった。
「ない。受け取れ」
「やだ。お前に貸したの旧札だったんだよ。最近あんま見掛けないから最後の一枚大切においといたのに、うっかり使っちゃった。だから、旧札で返して」
「お金の価値は同じだ」
「……お札折り曲げて、変な笑顔にして遊んだことない? ないか…。俺にとっては幼年期の大事な思い出なの。旧札じゃなきゃ要らない」
 わけが分からない。進藤が意味不明なのは今に始まったことではないが、その中でも特に理解不能だ。しかし、ムキになることでもない。大人げない。進藤に借りがあるままなのは大変不本意だが、そのうち旧札が手に入ることもあるだろう。そう思い、その場は引き下がった。
 しかし意識してみると、なかなか夏目漱石は巡ってこない。この新札の普及っぷりは何だろう。二千円札とは随分違う。いつのまにか、お金を下ろしたり、おつりを貰うとき、常に千円札をチェックするのが習慣になってしまった。
 そんなある日、JR市ヶ谷の駅で、知った顔を見かけた。名前は忘れたが、進藤の友人であるプロ棋士だ。彼が、自動券売機の前で取り出した千円札が、夏目漱石だった。思わず、すみませんと声をかけた。
「あの…突然ですまない。その千円札、交換してくれないか? 事情があって、旧札が欲しいんだ」
 顔をしかめてこちらを見たその人は、申し出に首を傾げた。
「なんだよ、最近何か流行ってんの? 昨日進藤にも言われたぜ、それ」
 札入れの中に漱石を収めて、翌日碁会所で進藤に会った。
「借りてた千円だけど」
「おお、早く返せよ」
「やっぱり旧札じゃないと駄目なのか?」
「あったりまえだろ。英世じゃ駄目」
 上着のポケットに入れた財布に、布越しに触れた。
「そうか。じゃあすまないがもう少し待っててくれ」
「しかたねぇなぁ」
 自然な様子で進藤は碁笥を掴んだ。
「早く返せよ。絶対な。…打とうぜ」
 …彼に借りがある状態は、非常に気持ちが悪い。反対に彼にとっては、心地よいのかもしれない。些細な優越感。わざと無意味に返済を長引かせるのは、それだけの理由なのかもしれない。だけど、どうだろう?
 少なくとも自分の指は、財布から、無意識に夏目漱石を避けて札を取り出す。薄っぺらな札入れの中に、喪服の彼を確認するたび、安堵のような、反発のような、微妙な心境に駆られるのが常だった。
 いつも、心騒がせられる。それはまるでうっかりとはまり込んだ罠のようだった。