路地裏に住んでいる今日も

 北斗杯前夜の合宿のときだ。湯飲みに手を伸ばしたら、塔矢の指と触れた。慌てて手を引いたら、怪訝そうな顔をされた。
「お先頂いたで〜」
 風呂上がりの社がそこに登場してくれて助かった。動揺で熱った頬を隠した。
「俺、最後でいい! 塔矢入れよ! てか俺ちょいコンビニ行ってくる!」
「あ、ついでにジャンプ買うてきてや」
 落ち着きなく勝手口から路地へ飛び出した。背後で、塔矢が鍵を締める音を聞いてから、やっと一息。鼓動が早い。嘘や、隠し事は得意なつもりだったのに。
「……好き」
 そのとき我慢できなかった。体の中に気持ちが充満して、下手をすると爆発しそうだった。だから、小さく小さく呟いてみた。
「…好き…」
 吐き出してみた。すると体が楽になった。
「塔矢、好き」
 誰もいない暗がりへ呟くと、憑き物が落ちたみたいにすっきりして、俺は夜食とジャンプをコンビニに買いに行くことさえできた。
 それが、最初だった。棋院や碁会所なら、他に人もいるし何とかなる。たまに、たまに訪れる塔矢の家が鬼門なのだ。あいつの気配が濃厚すぎる。普段押さえ付けているものが、体から一気に飛び出そうになる。  だからそういうとき、俺は習慣のようにコンビニに出かけることにした。口実は何でもいい。ジャンプでもサンデーでも週刊碁でも、不意に食べたくなるコンビニおにぎりや、使ったことのない整髪剤や。
 そして裏の路地で、こっそり思いを吐き捨てた。
 「…す、」
 あるとき、いつものようにそれを口にしようとしたとき、不意に物音がして心臓が飛び跳ねた。石塀の上へ、猫が一匹駆け上がっていく。その猫が植え込みから出てきた音だった。ほっとした。
「…好きだよ」
 舌の上で甘い言葉を転がすと、塀の上の猫が動きを止めてこちらを伺った。茶色の体毛なのに、前頭部だけ微妙に明るい色をした生き物で、それがなんだか俺っぽくて笑えた。
「最近このへん野良猫多い?」
 コンビニまで走って往復してきた俺は塔矢に聞いてみた。塔矢は頷いた。
「どこから来たんだろうね。裏の家は猫が嫌いだし、うちも、昔僕が喘息気味だったから、そういうのは避けてるはずなんだ。餌をやる家はないと思うんだけど、最近よく見かけるね」
 ふうん、と思った。だけだった。そのときは。
 だけどそれ以来、俺が路地裏でささやかな告白をするとき、そいつはいつも、いるのだ。見るたびに、毛並みは艶やかに、また肥え太っているようだった。
 大きくふてぶてしい生き物にじっと見つめられ、さすがに言葉を言いよどんでいると、猫は動こうとしない。待っている。俺は、体の中に積もり積もって、喉元まで競りあがる思いを耐え切れず言葉にして囁く。そうするとそいつは、満足そうに一声鳴くと、去るのだった。
「おかしいんだ。近所のどなたに聞いても、そんな猫知らないと言うし、もちろん餌をやっている心当たりもない」
 やがて塔矢が困惑混じりに俺に零すようになった。
「でも、君は、見たんだよね?」
 見た。というか見ている。俺は塔矢家の前庭に、そいつがいるのを感じていた。もう猫といえないくらいのサイズで、ヤツは俺たちの様子を伺っている。
 塔矢が、雨戸を締めるために碁盤の前から立ち上がった。庭に面した窓を、一度開けようとする。
「塔矢」 俺は急に怖くなって名前を呼んだ。
 あれは、俺の思いのケダモノだ。行き場所もないのに、好きなやつから離れられない。それがどんなにか熱く、深く、激しいものか誰より俺が知っている。どうすればそれが、消えるのかも。
「塔矢、俺」
 だから俺は塔矢を呼び止めるために、彼が窓を開ける手を止めこちらを振り返るように、何よりも俺自身の思いの行方を定めるために。告げた。
「お前が好きだ」

 半月後。二人でコンビニへ行った帰り、久しぶりに猫を見かけた。しなやかな茶色の可愛らしいそれは俺たちの前を横切っていった。そいつ、だけではなかった。同じようにすんなりと、美しい漆黒の猫と一緒だった。
「あれ、あの猫。随分とダイエットしたんだね」
 塔矢が何でもないことのように感想した。お前が見てたのは、どっちの猫だったのか。聞きたい気もしたけれど、やめておいた。