18歳

 小さい頃憧れていたのは16と18。漫画やアニメの主人公はたいがいそんな年齢だった。だけどベッドに横たわり、次に目覚めると18歳だった。あっけない、昨日と地続きの今日、俺は18歳になった。
「進藤プロ」
「進藤本因坊」
 呼びかけられるその銘に薄く微笑むことに慣れた。俺から見てさえ浮ついたムードで人々は何に酔っているのだろう。院生たちの、敬意のまなざしと花束。多少バカをしても許される。誰に。
「本因坊」
 その重すぎる冠に、いつまでも、慣れないでいる。
 誕生日だというが何も変わらない。年つきに指折る。ひとつ、ふたつ、みっつ…。相手の地、半目足りないと気づいてどっと汗をかいた。カメラのフラッシュ。「おめでとうございます」「新本因坊」「10代の」
 ヒカル、どこへ行くのという母さんの声を無視し、家を飛び出した。駆ける。誕生日だというが何も変わらない。今日は手合いも約束もない。碁を打つのが辛かった。棋譜を並べるのも痛かった。釣り合わないこの名前の重さ。こういうときは寝るか走るかどちらかだろう?
 だから走った。追いつかない。こんなにも息が荒れて汗が落ち、動悸は激しく血は脈打つ。張り裂けそうだ。多少は、縦に、横に、伸びた身体でも器じゃないんだ。毀れるんだ。時間は指の間を落ちていく水のように形ない。両手を濡らすのにこの手の中に留まらない。どんなに速く駆けたつもりでも、その背に届かない。
「最近の彼の勢いは」
「行き急いでいるようで心配です」
 だって、どんなに速く駆けても、間に合わないんだ…
 お前には分からない。
 お前には分からない。

 走って、走って、心臓が悲鳴を上げ始めた。足を繰り出すテンポがずれる。やがて俯き、とぼとぼと歩き続けた。どこへだろう。
「進藤」
 背後から呼び止められる。足を止め、振り返る。
「やっと止まった」
 塔矢は呆れたように微笑んで髪が揺れた。「凄い速さで走ってるから。何かに追いかけられているのかと」
 それだけ言って口を閉じた。彼のあのときの碁は何かに急かされているようだと塔矢が評した。それを人づてに聞いて怖かった。違う、違う、お前には分からない。
 背中なんか気にしてやしない。見ているのは前だけ。俺は追っているんだ。追っているんだ。追いつけない何かを。届かない何かを。
 それなのに、逃げているようだと塔矢は言った。
 怖いのか、と、誰も口にしない真実を突いた。
 あの目で。
 見るな。
 暴くな、俺の弱さを。
 見抜くな。







 ……佐為、大人になったら今辛いことも辛くなくなるのだと思っていたよ。だけど日が暮れてまた明けただけだった。お前が消えたあの日のように、辛いことは辛いままで今もこの胸を苛み続ける。
 佐為、年を重ねても苦しみが色褪せぬなら、あのときのお前も苦しかったろう。
 押し隠すことに慣れるだけだなんて。
 漫画やアニメみたいなドラマは、奇跡は、ロマンスは、そしてすべての崩壊は。
「進藤」
 夢見ていたあの頃と同じように名を呼ぶ。
「キミのお母さんが小さなケーキを用意して待ってる」
 ただの知り合いでしかない塔矢アキラがそんなことを言って俺の肩を軽く掴む。「帰ろう」
 誕生日だからって何も変わらない。結婚できる年齢にはなったが、ロマンスなんて微塵もない。ただあっけない、正体の知れない何かが流れているだけだ。
 18歳。
「おめでとう、進藤」
 何も変わらない、何も変わらない声音で塔矢が祝した。
 そして追いかけてくる何かから俺を守るように、そっと肩を抱いた。