絶対降伏主義


 人に指摘されれば癪なことこの上ないが、自分では認めるしかない。暇だった。
 いい加減、部活の方に顔を出していれば、顧問にいい顔をされない受験生の立場。かといって、数ヵ月後に控えた高校入試のため、気合を入れねばならないほどの成績でもない。加賀鉄男がこの放課後、違うクラスの廊下側の席に、さしたる用もなく現れたのは、以上二つの理由によるものだった。
 「うっわ。お前ひでーなこれ」
 人影まばらな教室で、模試の成績表を眺める筒井公宏の背後に立ち、加賀は遠慮ない感想をもらした。筒井はとりあえず真っ当な反応として、しばし沈黙した。
 「…どっから出てきたんだ…?」
 「通りすがり通りすがり」
 「…人のもの勝手に見ないでくれるかな」
 筒井にしてみれば、芳しくない合格予想確率を、同じ高校を受けるという人間に見られるのはあまり嬉しくない。しかしその心情を説明したところで、加賀にはきっと分からないだろう。そんな筒井の無意識のため息に、加賀は何とはなしにむっとした。
 「誰に見られたからってこれ以上お前の成績が下がるでもなし」
 「そういう問題じゃないよ」
 筒井はそそくさと紙を折りたたみファイルに収めた。そのまま続けて、帰り支度だ。
 「帰んのか?弱小囲碁部にでも行くのか?」
 「もう弱小じゃないよっ。…そっちこそ、いくらもう引退だからって、そんなタバコ臭かったら将棋部にも迷惑かかるんじゃないのか?」
 「そんな要領悪かねーって」
 「どうだか」
 この間だって…と言いかけて、筒井は少し改まって加賀を見た。
 「そうだ、進藤くん、院生試験に通ったそうだよ」
 「へぇ…。そりゃ上々。打倒塔矢アキラへの第一歩ってわけだ」
 加賀は件の囲碁部員・進藤ヒカルを思い出し、多少の痛快さに笑みを浮かべた。上手いのだか下手なのだか、さっぱり掴み所のない一年坊主だったが、やはりその才能は否定できない。院生の中でどこまで伸びるか楽しみなくらいだ。まぁ最も加賀としては、そういった人材が、自身の所属する将棋部のものならなお良かったのだが。
 「……そういえば、加賀、」筒井がイスから立ち上がりながら言った。
 「『塔矢アキラ』って聞いても、昔みたいにヒス起こさなくなったんだね」
 加賀は、制服のポケットから出しかけていた両手を、思わずまた突っ込んでしまった。
 「……ヒスって何だよ、おい」
 「こないだも進藤くんのために、三面打ちとはいえわざわざ自分から対局してくれたし」
 「てめーらがごちゃごちゃ煮えきらんからだろ、それはっ」
 なんだか妙な方向に話が流れ出し、加賀はうやむやのうちに理科室へ向かうらしい筒井の後を追った。
 「やっぱり加賀って碁が好きなんだよね」
 「おい勝手に決めるな勝手に!なんでそうなるんだ!?」
 突拍子もない筒井の納得の仕方に、加賀は頭をかいた。アメフトだかサッカー部だかの、野太い掛け声が窓の外から聞こえてくる。それは確かに今となっては、「碁も塔矢アキラも大嫌い」などと言う気は失せたが、だからといって「やっぱり…」など、それでは以前の自分が馬鹿みたいだ。
 「なんでって……だってほら、今時囲碁部が盛況な高校なんて珍しいし……」
 だいたいが俺は将棋畑の人間で…と、対象の定かでない自己弁護を言い募る加賀に、筒井は続ける。
 「高校入って、またメンバー集めに奔走すること考えたら、今のうちに一人キープ……」
 「…そういうことかい…」
 保険扱いされ、加賀はどっと脱力した。
 「だって勿体無いよ、せっかくそんなに強いのに」
 「俺が強いのは当然なんだよ」
 仏頂面で自明の事実を告げても、筒井はダメージを受けた様子はない。
 「だいたいなぁ……まだ受かってもねー高校のこと、今から考えてどーすんだ?」
 「目算してるだけだよ」
 軽く笑いながら筒井は応えた。「でもほら、ヨセに入ってしまえば、なにせボクのヨセは『強い』加賀のお墨付きだから」
 加賀は、少なくとも不快ではない腹立ちを感じ、角を曲がればもう理科室…という地点で筒井の腕を引っ張った。
 「何」
 立ち止まって怪訝そうに問う筒井に、こちらは、「棋道部」の部員を一人確保するつもりで加賀は言った。
 「さっきの模試の、もっかい見せてみろよ」
 「やだよなんで…」
 カバンをガードする筒井の腕を易々と突破し、加賀は一枚の紙を取り出した。
 「ま。とりあえず数学か…」
 そのままきびすを返し、理科室とは反対方向へ歩いていく加賀を、筒井は慌てて引きとめた。
 「加賀っ。どこ持ってくんだよ、返せってっば!」
 「教室返んだよ。お前も来い。教えてやるよ、勉強」
 「………はぁ!?」
 「もう進路希望調査出したのか?」
 「そりゃ。…締め切り先週末だろ、あれ?」
 「どこ書いたんだ?この、C判定?」
 「悪かったなっ」
 別に悪いことは何もない。加賀は、教室の机の中でくしゃくしゃになっているその紙のことを思い出す。
 「じゃ、ま、俺もそこにすっかな」
 「……あれ、まだだったの?」
 今までの話の成り行きは一体なんだったのだ、と筒井は眉を寄せて苦悩した。
 まぁしかし何はともあれ、自分の「目算」は正しく達成されそうだ。
 思わず、前を行く加賀にそう告げると、
 「俺相手にかよ。甘い、甘いな。ヨセに入る前に中押し負けだね」
 振り返って加賀は、限りなく不敵に笑ってみせた。