Young Adults


 初めから先を歩いていた人だった。
 自分が初めてプロ試験を受けたのは小6のとき。今思うと力不足は恥ずかしいくらいだったのだけど、当時は盲目だった。そのときから伊角はそこにいた。
 強い人だった。そう思っていた。中押し負けした対局から、ずっとそう思っていた。
 「伊角さんは今年受かるんでしょ」小学生の自分はそんな残酷な台詞を吐いて。
 「そうだといいね」と優しい彼を苦笑させた。
 その年のプロ試験。自分は早い時点でふるい落とされた。伊角は…本選で順調に白星を重ね、そしてある日、つまづいた。
 がんばれ、と無責任に応援した。あんな強い人が落ちるわけはないと、寂しさの反面確信していた。しかし、落ちた。
 「伊角はなぁー…ちょっと精神面が弱すぎるからなー…」
 誰だったか…おそらく院の先輩だ。思い切り足を踏みつけてやった。伊角さんは、弱くなんか、ない。…それは、自分が強くなるにつれよりはっきりとしてきた。そのうち、一組の中でもトップを走るようになった彼は。
 羨望が募った。強いから、あんなふうに笑っていられるのだと思った。
 翌年のプロ試験。今度は、自分にもチャンスがあると思い、がむしゃらに対戦した。
 自分以外のことは見えていなかった。落ちたショックからやっと立ち直って辺りを見回し…まだ同じ場所にいる彼に気づいた。
 後姿を覚えている。丸くすぼめられた背中。うな垂れた頭。
 (伊角はちょっと精神面が…)
 駆け寄って、腕を取ったのだ。
 「伊角さん、打とうっ」
 いや、いくらなんでも今日はもう…。弱弱しい笑みで拒否する伊角の腕を、何度も何度も引っ張った。
 「伊角さん、打とう。伊角さん、打とう、打とうっ………」
 繰り返し誘っているうち、泣けてきた。
 自分よりずっと背の高い彼の腕に、すがって泣いた。
 「…和谷?」
 困った伊角が、たどたどしく頭を撫でてくれた。その腕に、泣き顔を隠して、
 「……来年は絶対、二人で受かろう……」
 そう伝えると、伊角は、「ああ、頑張ろう…」と答えてくれた。
 優しい人なのだ。さらに一年が経つ頃には、自分にも、「一緒に」受かるなんて甘いことは言えなくなった。
 それでも伊角は自分より「強い」人だった。…身長差が縮まったことに気づいたのは…いつ頃だっただろう…
 「あれ、伊角さん、縮んだ?」
 対局後、碁盤の前で立ち上がった彼の目線に思わず叫んだ。
 「ばぁか。…お前が伸びたんだろ?」
 彼は呆れたようだった。「和谷、成長期なんだろ。お前まだまだ伸びそうだもんな。…俺、高校入ってから全然だからなぁ」
 その伊角の台詞を、聞きとがめた師範が、何を勘違いしたか「諦めるのは禁物」と注意した。
 三度目のプロ試験。昨年と同じように、伊角は予選免除。自分はぎりぎりで及ばず、予選からの勝負となった。
 力は、それまでの二度と比ぶるべくもないくらいついていた。ただ、その年は、他のどの受験生も寄せ付けない強さで、どこぞの塔矢アキラとかいうイケスカナイ奴も、試験を受けていた。
 「むっかつくよなぁ…。今まで受けてなかったくせに、なんで今年こんな急なんだよ。おかげで…」
 「和谷、塔矢は関係ないだろ」
 「だってレベルが違いすぎるっ!」
 「関係ないよ。そりゃ、合格粋を確実に一つ取られるのは辛いけど…だけど試験は総当たり戦なんだ。他との対戦に勝ちさえすれば…関係ないよ」
 その会話を交わした時点で、すでに自分は崖っ淵だった。伊角は、塔矢にこそ負けたものの、真柴や辻岡などその他上位陣には白星を納めた。今年こそ、と、誰よりも本人が思っていただろう。
 なぜ、負けるのか…心底不思議だった。一組の中では誰もが認めるトップの腕を持っていながら。
 本当に、なんで伊角さん、勝てないんだか。
 「和谷ぁ、お前、人のこと気にしてる場合かぁ!?」
 素朴な疑問をぽろりと漏らすと、師匠にどやされた。
 「馴れ合っててもなぁ、その全員蹴落とすつもりでかかれっ!」
 ——分かって、いる。分かってる。いくら友人でも、優先順位は自分が上だ。勝負の世界はそういうものだ。だけど……伊角さん、は…
 「いいか?どんな勝負でも、勝てる可能性は絶対にあるんだ。絶対に負ける、そんな相手なんぞいないんだ」

 小6だった自分は、中3になった。
 中3だった彼は、高3に。

 とても大人に見えた。物凄く強いと感じた。
 そのときの彼と、今、同い年。
 追いつくことが出来ないと思っていたからこそ、追いついてやるとがむしゃらだったのだ。
 いつのまにか縮まった身長差と同じように、いつのまにか、見えないと思っていた彼の力の全容が、見えてきた。
 丸まった背中、垂れ下がった頭、震える肩………後姿が、小さく、見えた。

 「俺さぁ、前より大人になったよなぁ」
 四回目…四度目のトライアルの前、そんなふうに言った。
 「なんだそりゃ。…彼女でも出来たのか?」
 彼は、笑った。
 「まぁ確かに、最近、和谷、波に乗ってるよな。前ほど焦らないし、一手に深みが出てきた。…進藤のおかげかな」
 「———伊角さんのおかげ、でもあるよ」
 冗談めかして右手を差し出した。
 彼は素直にそれを掴んだ。
 「全力尽くして戦おうな、和谷」
 「おうよっ、勿論っ!」

 手の大きさは、まだ、負けている—————