紫の陽の花

 庭に、こぼれる色の洪水。いつまでも少女のような母が、歌を口ずさみながらハサミを入れた。
 そういえば、アキラさん。
 振り返るその人に手ぬぐいを渡す。
 制服がお洗濯から戻ってきたのよ。
 ——もう、着ないのに。
 ええ。でもせっかくだから取っておきましょうね。奥の間の箪笥にしまっておくから、見たくなったらいつでも言うのよ。
 ……うん。
 大分間をおいて、ありがとう、と付け足すと、母は小さく微笑んだ。

 梅雨前線が停滞しています… 天気予報を流す電機屋の前を通り過ぎたとき、雨を感じた。
 十分ほど前に畳んだ傘を、もう一度開くべきか迷っていると、後ろから車のクラクションが軽快に響いた。
 振り返ると、市河さんの車だった。
 合図にクラクションをつかうのはいけないんじゃなかったかな。
 助手席に座って、シートベルトをつけながら言ってみた。
 だあれ?そんな知識アキラくんに植え付けたのは。
 緒方さん。
 やっぱり。
 市河さんは少しふくれながらエアコンをつけた。冷たい風が吹き出した。市河さんの着ている服の袖は、わずかに肩を覆うだけのもので、冷えないかと心配したけれど今度は言わなかった。スーツにネクタイ姿の自分に配慮してくれた空調だと分かったから。
 でも最近緒方さんとは会ってないよ。
 あらそうなの?
 うん…お父さんもいないしね。…ネクタイ緩めてもいいですか?
 もちろん。見てるだけで暑そうよ。
 言葉に甘えて、少しだけ喉元をくつろげた。知らないうちに、ふうと息が漏れた。
 お仕事大変?
 市河さんが聞いた。雨は本格的に降り出して、フロントガラスを斜めに横切る。ワイパーが動きだす。
 仕事?
 その言い方がおもしろくて少し笑った。
 以前、緒方さんの車に乗っていたとき、横の道から出てきた車が、通りの向こうのだれかにクラクションを鳴らし、緒方さんは、あれは本当は駄目なんだぞ、と言った。
 その緒方さんとも、しばらく会っていない。
 お前は俺より下だ、と、言われてから。
 難しくて。
 家に着いて、礼を言って車を降りた。傘をさして数歩、振り返ると、市河さんは手を振ってくれた。

 棋譜を並べているうちに気がつくと暗くて、時計を見て驚いた。
 今は父母共に海外だ。夕食の準備をしなくてはいけないけれど、面倒だしどうしようと思っていた。
 そうすると、芦原さんがやってきた。
 こんなことだろうと思ってたんだよ。お前、インスタントでもいいから常備しとけば?
 軽く叱りながら、手早く料理を作ってくれる。両親が留守がちになって以来、まるでこの家の台所の主は芦原さんだ。
 ごめんね、ありがとう。
 食器を用意し、盛り付けを手伝う。
 片付けは全部アキラやれよ。
 もちろんだよ。やるよ。
 慌てて何度も頷いた。芦原さんの作ってくれたマーボー茄子は美味しかった。
 ちゃんと戸締まりするんだぞ、蒸し暑いけど風呂上がり薄着でいて湯冷めすんなよ。
 子どもに言うようなことを繰り返す人を玄関まで見送った。
 靴箱の上には母が飾った花が咲く。
 じゃあな、おやすみ。
 おやすみなさい。
 戸を閉めて、鍵をかけ、振り返ると家は静かだった。
 雨が、中華料理の匂いと混ざりあって香っていた。
 変わる自分に、変わる人がいて、変わらない人がいる。
 居間から漏れる光、この季節の湿った空気、畳んで差す傘、変わる色の花、会わない時間、人の声、微笑み…
振り返ると——そんなもののいちいちが、また自分を強くする。
 至上の幸福に辿り着くまで、いくつものの小さな苦しみと喜び。
 大輪の花を支えるものは細すぎる茎なのに、前ばかりを見つめすぎる自分に、ふと振り返ったときの人の優しさがしみじみとありがたかった。