Teenagers


 投げつけたカバンは壁に当たって情けなく落ちた。ベッドを拳で何度も打った。積み上げてあった雑誌や本——概ねは囲碁関係のものだ——も、手当たり次第床に叩きつけた。
 それからずるずる崩れ落ちて、ベッドにもたれ、その上に投げ出した片腕に、顔を埋めた。
 18年間!……そんな言葉が頭の中を巡った。
 18年間、18年間、18年間、18年間!!
 もう一度腕を振り上げ、渾身の力を込めて、振り下ろした。
 がっ、と涙が沸いて出た。ああ、やっぱり、ついに泣いたと自分で思った。
 シャツの袖で涙を拭うが、大量の水滴が止めどなく出てくる。
 声を殺していると、喉の奥がざらざらしてきた。
 越智のことを思い出した。負けたらトイレにこもるのだと。分かるよ、それ、ちょっと分かる。
 泣くならそりゃ一人だろ。全てを賭けているそのことで、生半可じゃない悔しさと惨めさを感じたときは、誰の慰めとかそんな問題じゃない。普通泣く。
 けどいいよ、お前はまだ小学生だ。
 濡れた顔を上げると、散らかった部屋の隅に、そこだけ清涼な空間があった。
 碁盤が置いてあるのだ。ああ、もう、笑う……
 立ち上がって近づいて、その側にまた座り込んだ。
 冷たい碁盤に触れたらまた泣けた。
 冷たいな……そろそろ寒い季節だ……
 18年間、全身全霊…
 しばらくずっと泣いていた。何度も目をこすったから、赤くなっているだろう。
 それから、深呼吸した。
 家族と対面しないよう、気まずい思いで洗面所に行って、顔を洗った。やはり目が赤い。それでもどうにか、もう、泣いてはいない。
 一度部屋に戻り、財布とキーホルダーをジャンバーのポケットに突っ込んだ。頭を冷やすつもりで、家を出た。
 もう外は暗く、思わず時間を確かめたほどだった。自転車を引っ張り出して、とりあえず数メートル先の街灯を目指し、ペダルをこいだ。と……さらにその向こうの暗がりに、人がいた。
 「…ちわっす……」
 和谷だった。加速のつきかけていた自転車を止めて、降りた。それを間に挟んで、街頭の光が届かない路上、向かい合った。
 「…師範に聞いて…」
 「ああ……」
 そんな相槌くらいしか出てこなかった。うつむく。和谷も、言葉に躊躇っていた。
 「……こんな時間にこんなところまで来てて、大丈夫なのか?」
 まともな世間話を、やっと切り出す。和谷は憮然として「平気だよ」と答えたが、どうやら家には何も言わず出てきたようだった。答え方と態度でそれくらい分かる。長い付き合いだ。
 「……駅まで送るよ」
 ゆっくり自転車を押して歩き出した。和谷も、ついてきた。文句を言いながら。
 「別に……平気だって。棋院に行ってたって言えば……」
 「嘘つかせるわけにはいかないよ。お前もね、せめて義務教育の間くらい、大人しくしときなさい」
 「…関係ねぇじゃん、そんなの…」
 和谷は不満げに呟き、足を止めた。何本目かの街灯と街灯の間、やはり、暗い、路上で。
 仕方なく、合わせて立ち止まる。
 「伊角さんはさぁっ」
 数秒間の沈黙の後で和谷が言った。溜まっていたものを吐き捨てるような口調。
 「…何」
 「何じゃないよっ。伊角さんさぁ……っ!」
 待っていても、結局和谷は、その文章を完結させない。結局、口を閉じて、結局、何度も瞬きしていた。
 泣くなよ…と、思った。
 「……行こう、和谷」
 促すが、和谷は動こうとしない。「行こう」。自転車を少し押して、先へ進む。後ろから和谷が小さく叫んだ。
 「俺、悔しいよ…っ」
 先へ、進んだ。
 自転車……乗っていってやろうかと……思った。
 「伊角さんっ、ねぇっ、ちょっと待ってよっ!」
 癇癪を起こした子供のように、和谷が追いかけてきた。
 「悔しいのは俺だよ」
 歩きながら返事をすると、和谷は口をつぐんだ。
 「悲しいのも辛いのも情けないのも…やるせないのも……もうにっちもさっちもいかないのも…全部お前じゃなく俺だよ。違うか?」
 自分は。
 ズルイことを言っている。
 卑怯で大人気ない。和谷が、肯定も否定も出来ないことを問い掛けている。
 ……ごめん、と、言いかけたのかもしれない。二人のうちのどちらも。
 謝っても惨めだ。謝られてももっと惨めだ。
 (本当は自分だって、和谷に、まだ、「おめでとう」を言っていない)
 何を言われても、それを受け止めるだけの余裕が今の自分にはない。それが和谷にもばれている。長い付き合いだ。
 やっぱり、壮絶に、情けなくなった。
 三つも年下の友人に気を使わせて———プロ試験にも落ちて———人として持つべき優しさも配慮も忘れて———
 「……ほんとに……情けないな……俺」
 そして弱い心は、性懲りもなく、沈黙よりも言葉を求めている。そんな問題でもないと言っておきながら、その場限りの慰めを。
 「……そんなことねぇよ」怒ったように和谷が呟いた。ありがとうと返す前に、「だからまだ諦めないでくれよ!?」…と。
 「また来年…っ、来年受ければいいだろ!?このままじゃ終わらせねぇよな!?なぁ、伊角さん……っ」
 肩と、自転車のサドルに手を置かれて、止まらざるを得なかった。
 和谷の顔がすぐ近くで、睨んでいた。怖いくらいに真剣だった。
 もう充分じゃないかと心のどこかが呟いた。自分のことで、これほどまでに真剣になってくれる友人を得て…それだけで、もう…この18年間…充分…—————なわけは、ない。
 黙りこんだ自分に業を煮やしたか、和谷は舌打ちをして肩を掴む手に力を込めた。
 「俺は、諦めないからな!」
 「…そりゃ和谷は…これからだから、」
 「違う!伊角さんがプロになってまた俺と対局することを、だよっ!勝手に決めるなって言われても、絶対に俺は諦めないっ……絶対!!」

 …初めて、自分から手を伸ばした。和谷の前髪をくしゃりと掴んで、頭の上にぽんと乗せた。
 「……ありがとう」
 唇がほぐれた。暖かい息がそこから漏れて………笑えた。
 「ありがとう。…でも、まだどうするかは分からない。まだ決められない。もうちょっとだけ待って欲しい。…止めることにするかもしれないし……自信はないんだ。
 けど、心が決まったら、和谷に知らせるよ…。一番に知らせる」
 和谷はまた何度も瞬きをして、肩を掴んでいた手を引いた。こくりと、幼い仕草で頷いた。
 頷いて、うつむいたまま、一緒に歩き出した。駅までの道のり、彼は何度か、小さく、鼻を啜っていた。
 改札まで来ると、しかしきっぱり顔を上げ、「じゃあ、俺、行くよ」と言った。
 「先に行くから」
 ああ、お前かっこいい男だな、と苦笑し、見送った。
 18年間、この18年間…
 そんな言葉をぐるぐる頭の中に回しながら、自転車で夜風を切り、帰途に着いた。