空の鳥の羽の下の


 教室で担任教師から手渡された卒業証書は何のありがたみもなかった。式壇上で校長からそれを受け取るのは、クラス代表だけなのだ。
 形ばかり湿っぽい、中身はいつもの説教と変わりない担任の話も終わり、後輩や父兄が待つ外へ。上履きを持ち帰らねばならないということだけ、少しばかり卒業らしいと岸本は思った。
 校門までの道のりは、写真撮影場と化していた。まだ晴れていて助かった。フラッシュの煩わしい光はない。証書の筒と一輪の花と、学生カバンともろもろの荷物を植え込みの隅に置き、岸本もとりあえずクラスの全体写真に収まった。
 それから、所属していた囲碁部の面々が集まる一角へ、足を運ぼうとしてふと立ち止まった。
 「…塔矢?」
 運動場へ続く、土手の上の人工の芝生を踏みしめて、何をするということもなく所在無く、そこにいたのは塔矢アキラだった。
 一時期は岸本の後輩でもあり、しかし今ではプロの棋士。手の届かない高みの人、だ。
 「……あ、…ご卒業おめでとうございます」
 その塔矢が、かすかな戸惑いを笑顔で誤魔化し会釈した。
 「…どうしたんだ?一年は、委員以外は自由参加だろう?」
 「ボクが来ていてはおかしいですか?」
 「おかしくはないが……。いや、正直意外かな」
 塔矢は苦笑した。彼は今では何の部活動にも参加しておらず、この様子を見る限り特に親しい友人がいるようでもない。
 いくら囲碁部の盛んなこの海王中学でも、囲碁のプロといった存在はどうしたって異質なのだろう。
 「…卒業すればもうまったく縁がなくなるな。惜しいことをしたよ。プロになる前にもっと打ってもらっておくんだった」
 「……機会があれば、ぜひまた」
 「社交辞令が得意だな」
 笑いながら言ったのだが、下手をすれば嫌味かもしれない。「一度互戦をしたときも……キミは『予想以上の力でした』と言っていたっけ…。あれは、世辞だろう?」
 「…よく覚えてらっしゃいますね」
 同じクラスの女子が数人、「岸本くん、後で一緒に写真!」と声をかけて走りすぎていった。3月始めの穏やかな風は、まだ少しだけ、冷たい。
 「それともキミは、よほど部活の囲碁を低く見積もっていたのかな」
 「……気を悪くなさったなら謝ります。…もう、遅いですけど」
 「いや…」
 今度は岸本が苦笑した。自分が思っていたよりも、ある種の感傷的な衝動に駆られていたのかもしれない。
 「こっちこそ蒸し返して悪かった」
 冷静に考えれば、院生を中途で脱落した自分と、プロである彼とでは、その力に格段の差があるのは当然なのだった。
 「…そう言えば、もう随分と前だけどね。葉瀬中の進藤と碁会所で打ったよ」
 何の気なしに話題を振ったのだが、塔矢は不意をつかれたようだった。口篭もる。そんな彼の表情は岸本にとって愉快だった。
 「……進藤は……彼は、院生になったそうですよ」
 「院生に?」
 しかしまた逆襲された。院生に。なれる実力が彼が持っていたとは。
 「意外……では、ないか。そうだな、塔矢アキラが追いかけていたほどの人間だ」
 「それはもういいんです」
 厳しい口調で遮って、塔矢はふっと力を抜くと芝生に腰を下ろした。緑の上に投げ出された指は、これから、岸本の辿り付けなかった世界で、幾人ものプロ棋士と戦ってゆく指。
 この差は一体何なのだろう。そんな素朴な疑問を、深く思い悩んだりはけしてしないがふと思った。
 環境、努力、才能?そのすべて?自分と入れ替わるように棋院へ通っているのであろう、進藤ヒカルにはそれがあるのか。
 「部長は…」
 「もう部長ではないよ」
 「あ……先輩は、高校でも囲碁部に?」
 「そのつもりでいるけどね」
 それは厳しい質問だと思う。特に塔矢アキラの口から出るとなおさら。
 「物足りないんじゃないでしょうか?先輩ほどの、その、」
 「『臆病な自尊心』」
 こちらを見上げてくる塔矢のまなざしに、こんなことはきっと他の誰にも言えないだろうと感じた。
 院生の下の順位で悔しがっているより、囲碁部の部長でいる方がプライドが痛まないことに気づいてしまった。どうしても、どんなに頑張ったところで上には行けず、転落の恐怖だけ、感じていた日々より。
 風が吹いて、まっすぐだった塔矢のまなざしも揺れた。
 「岸本くん!」
 そのとき、同じく囲碁部だった日高が駆け寄ってきた。
 「皆で写真撮るからそろそろ来てよ。…あ、塔矢も、入る?」
 「あ、いえ、ボクは…」
 「そう?……残念ね。じゃ、岸本くん」
 「ああ…」
 立ち上がった塔矢が見送ってくれるのを、光栄だと思った。仲間の待つ場所へゆっくりと向かいながら振り返ると、彼はまた手持ち無沙汰な様子でそこにいた。
 なぜ今日登校したのだろうか、彼は?
 結果的にはぐらかされてしまった問いを、胸の中で再度呟いたとき、もう一つの疑問が浮かんできて重なった。
 なぜ彼はこれまで、充分にその力を持ちながらも、プロになろうとしなかったのだろう?
 「臆病な自尊心」。先ほどの自分の答を噛み締めると苦かった。3月の風が収まるのを待つ、通りすがりのカメラマンのレンズの向こうで、昔目指していたあの大空を飛ぶ鳥も、本当は恐れを感じつづけているのかもしれない。

 塔矢アキラは、まだたったの13歳なのだ…。今まで意識したことのない、考えたこともなかったその一つの事象を、ようやく事実として、今岸本は認識した。