かさぶた


 棋院を出てから、いつのまにか小走りになっていた。普段はゆっくりと、心持ちうつむき加減に歩く伊角だったが、今日は前だけを見ている。自分では気づいていないが、唇を噛んでいた。
 前だけを見すぎていて、車道と歩道の段差につまづき、あっという間に転んでしまった。子供の容赦ない笑い声が聞こえた。すぐに起き上がって何と言うこともなくまた歩き始めたが、羞恥は甚だしかった。
 馴染みのファーストフード店に入ると、即座に「伊角さん、ここ、ここ」と呼び声がした。同じ棋院の院生である、和谷の声だ。目をやると、他にも数人、仲間がテーブルについている。
 注文の前にカバンを置こうとその席に寄ると、和谷が顔をしかめた。
 「流血」
 え?と聞き返すと、左腕を指差された。
 長袖のジャケットを羽織らずカバンに収め、そのとき着ていたのは半袖のシャツだ。左肘の少し上あたりから、指摘された通り血が出ていた。
 「ああ、さっき転んで」
 「痛くなかったの?」と、仲間の一人の少女が言った。
 「それよりも恥ずかしくて。……洗ってくる」
 「ちょっと待った!それより先に…」
 手洗いの方向に去ろうとした伊角を、和谷が呼び止めた。「結果報告は!?」
 「ああ…………。駄目だった」
 意図したわけでもなかろう深いため息を背に、伊角はその場を後にした。囲碁のプロ試験本選。結局、自分たちの中からは誰もその関を通るものは出なかったのだ。
 血と汚れを水で洗い流し、バリューセットを両手で持って席につき、皆と食事をした。憂さ晴らしというほどのものではないが、皆それぞれに明るく、同時に暗かった。ふと訪れた沈黙の終わりに、流れる歌謡曲のアーティスト名を呟いたのは誰だったろうか。
 「…カラオケでも行く?ボーリングは?」
 そんな誘いを断り、帰宅することにした。秋風が思ったよりも冷たい。ジャケットを着る。途中まで、和谷も一緒だった。
 「……俺、伊角さんは受かると思ってた」
 「……そのつもりだったけどね」
 しかし、落ちた。いつも通りの実力を発揮できたなら、勝てたかもしれない相手に負けた。言い訳の仕様もなくそれは敗北だ。だから落ちた。
 …切羽詰ったところまで、来てしまった。
 院生でいられるのは後一年。勿論、年齢制限を越えた後でも、研修生として出入りは出来る。プロは目指せる。チャンスはこれからも確かにある。しかし、これまでも確かにあったのだ。
 これまでの好機を生かせず、これからのそれにどれほどの期待が出来ると言うのだろう?
 結局のところ自分には、最後の最後で乗り越えるべき壁を突破する、決定的な何かに欠けているのではなかろうか…
 「…でも、また、来年があるしっ」
 和谷が言った。
 「伊角さんなら来年は受かるよ。俺ももっと強くなってるしさ!」
 プロを諦め、進学するならこの一年が勝負だ。分かっている。
 「…そうだな…」
 しかし、そんな選択は自分には出来なかろう。この歳まで碁一筋でやってきた自分の性格くらい、嫌になるほど熟知している。
 「また、来年があるよ…」

 その夜、浴槽に浸かろうとしたとき、忘れていた左肘の傷が湯に染みた。
 「痛ゥ…」
 思わず腕を上げて、傷口を覗き込んだ。黒く変色した血の塊が2、3。擦り傷と青痣。
 ため息をついて、徐々に湯に浸していく。痛い。耐えられないほどではないけれど。
 水が跳ねて音を立てた。
 今年駄目なら、もう諦めるの?
 家族だったか教師だったかの台詞に心の中で謝る。
 ごめんなさい。やっぱり諦めるのは、無理です。
 わざと水で音を立てた。
 傷が痛かった。
 水音を立てて呟いてみた。
 「…悔しい…」
 声に出すとそれはなんとも薄っぺらで、言葉の本来の意味さえ失ったかのように味気なかった。

 2週間もすると、左肘はもう湯につけても染みることはなくなった。
 痣とかさぶたと、そしておぼろげな痛痒だけが残った。
 時折手合いの合間などに、ふと気がつくと爪で引っ掻いてしまっている。
 そして血が出ると、あの日のことをまた鮮明に思い出す。