合わせ鏡 〜 かがみあわせ 〜


 日暮れは明らかに早くなっていた。棋譜を並べるには暗すぎる部屋で、塔矢アキラは本を投げ出し、畳の上に仰向けに転がった。
 彼は近々プロ入りを果たす。だからと言うわけでもないが、どうもこの頃、情緒不安定だ。…自己分析の、結果。
 (…マリッジブルーでもあるまいし…)
 馬鹿馬鹿しいことを思い、自分で自分がおかしくなった。暗く、木目も見えなくなった天井をじっと眺める。
 それから頭を動かして、…畳にこすれた髪が、鳴った…碁笥に手を伸ばした。
 碁石を一つ、手に取る。黒だ。アキラはなんとなくそれを見つめた。
 庭に面した障子は、何の光も通さない。夕方からずっと雨だった。月は雲に隠れてご就寝、か。
 黒い碁石。
 ふいに、あまりに唐突に、同い年の少年のことを思い出した。
 (…進藤ヒカル…)
 石を手中に、強く握り締める。正直言って彼のことはいまだによく分からない。
 初めて会ったとき、そして2度目の対局。あの圧倒的な強さが偶然や錯覚だとは、どうしたって思えないのだ。しかし…
 もう一度石を見つめながら、アキラは身体を横にして、畳の上に片肘をついた。行儀の悪い姿勢だ。父親の前ではとても出来ない。一人のときでないと。

 「…アキラくん」
 いつのまにか、障子の向こうに誰か立っていた。驚いて、とっさに身を起こし返事をする。
 「あ、はい!」
 外から開けられる障子。そこにいたのは緒方だった。白いスーツが闇の中に朧にうかぶ。
 「…こんな暗い中で棋譜並べかい?」
 緒方は、碁盤と、畳に落ちている本を見て苦笑した。脚を投げ出し、身体の後方に両手をついた格好では、今の今まで寝転がっていたことは一目瞭然。羞恥を誤魔化すために、アキラは持っていた石を碁笥に戻した。
 「…何か御用ですか?」
 「いや。名人に会いに来たんだがね。…プロ入りの祝いを、まだ言っていなかったから」
 「ああ…」
 律儀ですね、とアキラは少し笑った。別にどうってことありません遅すぎたくらいです…とは、いくらなんでも口には出さない。
 「遅すぎたくらいだけどね…」
 奇しくも緒方が呟いた。「まぁでもとにかくおめでとう。同じ若手として、これからもよろしく」
 「はい。こちらこそご指導よろしくお願いします」
 座ったままで一礼する。緒方は数歩部屋へ踏み込み電灯をつけると、「目を悪くするよ」などと忠告をして去っていった。
 明るくなった部屋で、またしばらく茫としていた。
 (…こんなことではいけない…)
 おめでとう、と言ってくれた緒方の声を思い出す。自分はプロになるのだ。これまで以上に切磋琢磨し、目標たる父に少しでも近づけるよう励まなければいけないのに…。
 目標。
 父親。
 その先にある神の一手を。
 ………進藤・ヒカル。
 「…っ!!」
 思わず拳を畳に叩きつけた。「進藤が…どうしたって言うんだ…」
 自分は敗北の記憶を引きずっているだけだ。結局のところ、彼は自分の敵ではなかったのだから。
 (オ前、俺ノ幻影ナンカ追ッテルト、ホントノ俺ニイツカ足元スクワレルゾ!)
 最後、進藤はそう言っていた。………だったらもっと強くなれよ!!
 (…僕は…君を追って棋院まで走った。葉瀬中にまで乗り込んだ。囲碁部に入って大会にまで出た。ネットカフェまで全力疾走した…。同じくらい必死になれよ!!)
 あの時感じていた自分の屈辱と挫折感、そしてそれを上回る高揚を、君も抱いて走って来い!

 ……それはまるで鏡を見ているかのように……

 「知らなかったろう。彼が院生になっていたこと」
 「塔矢アキラを追ってるんだ」
 進藤ヒカルが。
 ……「近づけさせません」
 あの頃、君が僕の壁であったように…いや、もっと高く、僕は君の前に立ちふさがる。
 君を超えゆくことで、僕は過去の自分を乗り越える。

 ……それはまるで鏡を見ているかのように……