Juvenile


 エレベーターを先に出た真柴が不意に立ち止まったので、もう少しで冴木はその頭に顎をぶつけるところだった。
 こんなところで止まるなよ、と言いかけた。その前に真柴が声を発していた。
 「伊角さん」
 視線を上げると、院生師範と立ち話している伊角慎一郎の姿があった。彼は、らしくない露骨な仕草で顔を背けた。丁度話が終わったようで、年配の師範は、少し咎めるような視線を真柴へと寄越した後、二人とすれ違いに去っていった。
 「結果見ましたよ、残念だったですねぇ」
 ……また始まった、状態である。真柴は、ことあるごとに伊角に絡む。特に今、伊角が18歳でプロ試験に落第したこの時期に、しかしそれはあまりにも残酷だ。
 「それでもって、和谷の奴は受かってるじゃないですか。おっかしいですよねぇ。伊角さんの方が絶対強いのに」
 「真柴、お前な…」
 後ろから咎めたが、真柴の口は止まらない。
 「伊角さんともあろう人が、なんで18なんて院生追い出される年になってもプロになれないんでしょうね。……ほんっとに不思議ですよ…ほんっと」
 伊角は黙って、踵を返しかけた。真柴、このバカ、と心の中で怒鳴りつけ、冴木は慌てて彼を呼び止めた。
 「あ、おい、伊角!」
 「来年こそこっちに来るんでしょうね?若獅子戦で負けたことも、俺忘れてませんから!」
 真柴がそう言い捨て、玄関口へと早足で歩いていった。
 追い抜かれ、伊角は立ち止まった。少し困った顔で、冴木の方を見た。
 「…………小学生の愛情表現だな、ありゃ…」
 冴木は呆れ果て、伊角に並んだ。
 「改めて。……久しぶり」
 ジュース奢るからまだ帰るなよ?と念を押し、冴木は自販機へと赴いた。伊角とは、年も近いことからそれなりに親しい付き合いをしている。和谷、という共通点もあることだ。
 「ほら、C.C.レモン」
 「………別に俺、これしか飲まないわけじゃないぞ?」
 「ああ、悪い。なんでかな。伊角といえばこれなんだ。暖かいものの方が良かったか?」
 「いや…別に…」
 自分にはコーヒーを買って、「座ろうぜ」と伊角を促す。
 「乾杯。…我らが和谷クンのプロ入りを祝して」
 わざと真柴並みにきついことを言って、缶をかちんと合わした。
 恨めしそうな表情で、伊角はため息をついた。
 「…嫌味、止めろよ。…帰るぞ俺」
 「悪い悪い。真柴の気持ちが今ちょっと分かった」
 「共感するな」
 ふて腐れ、伊角はやっとジュースに口をつけた。
 しばらく、沈黙が落ちた。
 「…………惜しかったな」
 簡素な長いすに並んで、横を見ず、前にある灰皿の吸殻だけを見つめて冴木は呟いた。
 「今更慰めたって遅いよ」
 伊角がかすかに笑いながら応えた。少し前かがみの姿勢になって、髪が揺れている。
 「何ひねくれてんだ?本当にそう思ったから言ってるだけだよ俺は」
 「……惜しかろうとなんだろうと不合格には変わりない」
 「嘘だね」
 即答してやる。伊角は断言と押しに弱いのだ。
 「嘘って…」
 苦笑しつつ、伊角が冴木を見た。だから、目を合わし、言ってやった。
 「お前は強いよ」
 「落ちたんだぞ!?」
 伊角の手の中で、ジュースの缶が一瞬震えた。
 「実力…ないんだよ、俺はっ。…正統な場で発揮できないなら、そんなの実力じゃないだろ!?」
 「……落ちたことは知ってるさ。俺はプロで、お前はまだプロじゃない。だけど、俺はお前と打ったことがあるから、お前の強さは分かってる。…俺だけじゃない。和谷も……真柴も、お前が強いってことくらい知ってるさ」
 冴木は足を組みなおした。意味のない慰めだよ、と、伊角が呟いた。悪かったな、有意義なこと言えなくて、と、冴木が混ぜっ返した。
 「なんだっていいよ。俺は、とにかく、お前の碁はいいぜって言ってやってるんだ」
 みんなが、心配している。
 彼が、今までの努力やその才能を、全てを、人生の捨石にしてしまうことを。
 「和谷、心配してたぜ」
 「…そう」
 「俺も」
 「付け足しか」
 伊角はまた少し笑った。冴木の買ったコーヒーは、普通より小さいサイズのものだったので、伊角より大分早くに飲み終わってしまった。
 腕時計を確認すると、それなりの時間だ。
 「そろそろ帰るかな」
 「あ、俺………飲んでから…」
 「ああ、じゃあ、またな」
 腰を上げ、ゴミ籠に空き缶を放り捨てた。数歩歩いたところで、後ろから、伊角が呼んだ。
 「冴木」
 振り返ると、彼は肩をすくめたまま、ジュースの缶を少し持ち上げ、「……サンキュ」と微笑んだ。
 「…なんかあったら連絡しろよ。無駄な説教くらいやってやるから」
 いい年をした男だから、多分、大丈夫だとは思う。それでも、そう告げてやりたくなるのが、友情ってもんだろ。
 冴木が棋院を出ると、真柴らしき後姿が、視界から大急ぎで逃げていった。
 まったくどいつもこいつも青少年だ。
 思わず笑って、ポケットに手を突っ込んだ。
 …今更、何も、捨てられるわけがないね。性分って奴だ。仕方ない。
 次の研究会で和谷に会ったら、伊角は大丈夫だよと伝えてやろう…。
 あいつは強いから、大丈夫だよ、と、そう………言ってやりたくなったりするのが、きっと友情ってもんだろ。