年明け一番、緒方さんが来た。
玄関先まで迎えに出て、ついでに遅れて着いた年賀状の束をポストから引き出す。
緒方さんと、挨拶の後の他愛無い世間話をしながら、葉書に目を落とす。やはり大体が父宛てで、ぱらぱらと自分や、母への賀状が混じっている。
台所で立ったまま、宛名ごとに分類していると、珍しい一枚が。
『塔矢行洋・アキラ様』
連名での宛名は、当然父母へのものが多い。父と自分宛て? 門下の棋士に、そういう不精をするものはいないし。
何気なくひっくり返し、思わず取り落としそうになった。
進藤ヒカル。
汚い字だった。
大量生産の愛想ない、しかし中学生らしく幼い絵柄。
その横に付け加えられた、「去年の新初段シリーズではお世話になりました」。
改めて宛名書きを見た。
少し斜めに曲がった「塔矢行洋様」のすぐ横に、幾分小さく、「アキラ」。よく見るといかにも付け足しだった。
とりあえず、父への賀状の山に入れておく。
夕食の後にその父が言った。
「進藤くんから年賀状が来ていたけれど、」
「見ました」
「そうか」
同じ席に着いていた緒方さんが、食器をまとめながら少し笑った。
「年賀状をやり取りするような仲だったとは知らなかったな」
「父宛てですよ。そこにボクの名が並んでただけです。無視するのもどうかと思っただけでしょう」
努力しても、無関心を装う声音になってしまう。どうして緒方さんはこういうときいつも笑うのだろう。
「それでも一応アキラくん宛てでもあるんだろう? 返事は出さないのかい?」
返事…。
なぜか考えが及ばなかった。そういえばそうだ。父はともかく、自分は出すのが礼儀だろうか。
「新初段シリーズではお世話になりました」。
進藤がそれだけを書いて、余白の大部分をそのままにしておいた理由がよく分かる。
一体何を書けと?
数十分、一枚の葉書の前で頭を抱えてた。
「お世話になりました」? 世話になった覚えもない。
「今年もよろしく」? 「も」とは何だ。「よろしく」って…何を。
正直に書いたらこうなるけれど。「去年もキミには悩まされた」。
よろしくというなら囲碁のことしかない。かといって賀状でこの間の対局の検討とかをするわけにもいかないし。
悩みに悩んで、結局、堅苦しい時候の挨拶だけで余白を埋めた。きっと進藤は、書かれた熟語の半分も理解できないだろう。きっとそうだ。そうに違いない。
表書きの段になってまた頭を抱えた。
……住所を知らない。
勿論すぐ分かることではあるが、自分が彼の住所も知らないと気づいた時点で、なんだか馬鹿馬鹿しくなってしまった。
進藤ヒカル様、と書いただけで、その葉書はカバンの中に納めてしまった。
そして正月気分も抜けきった頃、棋院の一階で進藤とすれ違った。
年賀状のことなんてすっかり忘れていた。
だから財布を取り出すとき、そのうすっぺらい葉書が一緒に飛び出したのは本当に偶然だ。
断じて偶然だ。
彼の名前を表にして、その彼の足もとにスライディングしていったのも………偶然じゃないならなんだと言う?
進藤はおもむろに身を屈めそれを拾い上げると、しばしきょとんと眺めていた。
返せというのも奇妙だから黙っていた。進藤は笑った。
だからどうして誰も彼も、こういうときは笑うんだ?
「これ、貰っといていいんだろ?」
自分の行動はそんなにおかしいのだろうかとふて腐れ、彼に答えず背を向けた。
進藤ヒカル様。そういえば彼の名前をこの手で書くのも初めてだった。