月下紅葉


 二次方程式の上に突然一葉を置かれた。かさかさと乾いた、朱色の紅葉だった。数学の宿題をこなしていた塔矢アキラは、驚いてそれを置いた人物を見上げた。
 「…緒方さん…」
 「この家の紅葉は見事だね。銀杏はだいたい散ってしまったようだけど」
 アキラは返答に困り、あいまいに微笑んだ。問題集を棚に置く。
 「邪魔してしまったかな」
 事実としてはその通りなのだが、まさか肯定はできない。あまりにしゃあしゃあと言われ、苦笑するしかなかった。…それに本当は、あまり集中していなかったのだ…。
 「向こうにみんな集まってる。対局しないのかい?」
 「…ええ、今はちょっと…」
 「気が乗らない?」
 「はい。すみません…」
 棋士失格の言葉だと自覚していた。ひとひらの紅葉は、緒方自身の手でゴミ箱行きだった。
 「…時間があるなら、気晴らしに出ないかい?」
 タバコを一本取り出しながら言う緒方に、アキラは小首を傾げ疑問を表した。
 「神社で秋祭りをしてる。こんな、いい年した男が、まさか一人で金魚すくいに興じるわけにもいかないだろ?」
 その情景を想像し、アキラが思わず口元をほころばせた。「ああ、はい。分かりました。ご一緒させていただきます。ただし、実費は緒方さん持ちですよ?」
 「もちろん」
 「お父さんに断ってきます」
 …実際、アキラをだしに使うようなことを言っても、緒方はやはりアキラのために誘いをかけてくれたのだ。割り切ったつもりでプロ入りを目指したつもりだが…やはり彼から見れば、どこか煮え切らない心情が透け見えるのか。
 指導碁を打っていた父に、緒方と外出する旨を告げ、家を出た。夕暮れの中、少なからず肌寒い空気だ。
 「急に寒くなりましたね…」
 門の外で待っていた緒方に、そんな無難な話題を振る。
 「そうだね。風邪が流行ってる」
 そしてこれまた、無難な答が返る。囲碁の話題は出なかった。珍しい…とても珍しいことだ。アキラは道中、ことさらつとめて普通の中学一年生らしく振舞おうとする自分に気づいた。

 …神社の境内は人と電飾で溢れかえっていた。まぶしさを堪えて上を仰ぐと、暗い空に溶けそうな紅葉が盛りだ。二人は親子連れや子供らのグループに混ざり、いくつもの露店をひやかしていった。
 「緒方さん、そのスーツ、すごく浮いてますよ」
 くすくす笑いながら、そんなたわいない事実を指摘したときだった。
 雑踏の向こうに、忘れがたい人影を見た。
 前髪だけメッシュの、背の低い少年。アキラは瞬間顔を強張らせ、とっさに緒方の袖を掴んだ。
 「…アキラくん?」
 「あの…。すみません。もう…帰りましょう…」
 怪訝そうに眉を寄せた緒方は、アキラの視線を追い、やがて「ああ…」と呟いた。
 「かわいそうに。そんなに嫌ってやらなくてもいいだろうに」
 「そういうわけじゃ…。ただ、僕は彼に…二度と会わないってタンカを切ってるんですよ。…もう帰りましょう…?」
 「これだけの人がいたら気づかれないさ」
 「緒方さんは目立つんですよっ」
 必死に説得しながら、なんとか鳥居の方向へと緒方を引っ張っていく。面白そうな表情の緒方に、少し腹が立った。まさかと思うが、こうなることを予測していたのだろうか?いっそ置いていって、一人で帰ろう。…そう言おうと振り返ったとき、
 「…塔矢」
 ………。アキラは深深とため息をついた。進藤の声だった。
 「塔矢アキラ?」
 しかも、かなりの近くから聞こえる。アキラは観念して、声のする方向へ不穏な視線を向けた。
 鳥居のたもと。電飾の光の届かない場所。いつの間にそちらに回られたのか…すばやいことだ。
 (……え……?)
 赤い鳥居の向こうから、重量のある紅葉の枝が「その人」の頭上に伸びていた。電飾の光の届かない淋しい暗い場所。…そのはずなのに、もみじ葉一枚一枚の赤さが鮮やかに目を焼く。月光…忘れかけていたそんな光に照らされた、紅葉の色が。赤い紅葉の。
 赤い、唇の色。
 すらとした身体に、時代がかった白装束。黒い烏帽子。より黒く、狩衣に流れる長い髪。涼しげな目元。そんなまなざしでこちらを見やり、形よい唇が、名前を、呼んだ。
 『…塔矢アキラ…?』
 五指に紅を差した紅葉の葉が風にざわめく……

 なぜ、だとか誰だとか、疑問を覚える間もなく、アキラは肩を掴む緒方の呼びかけで我に返った。
 「…ラくん、アキラくん?」
 「あ…緒方さん…」
 一度緒方の顔を見上げ、そして再度、「彼」の方へ目をやると…
 「……進藤」
 「あ。…奇遇…だな、塔矢…」
 そこにいるのは、やはり進藤ヒカル。同い年の少年。
 「……緒方さん…帰りましょう」
 「…ああ」
 幻覚…なのだろうか。先ほどの人影は。
 「…疲れてるのかも…」
 「…何だって?」
 「……何でもありません」
 自分をここに連れてきた緒方が、急に恨めしくなって少し睨んだ。しかしすぐに八つ当たりと気づき、恥ずかしさに視線を逸らす。
 必要以上に顔が赤らむのは、あの人物を反芻し、「美人だった」などと思ってしまう自分自身のせいだった。
 「アキラくん?」
 「何でもありませんっ」
 足早に帰途を歩みながら、アキラはふと後ろを振り返った。
 かすかに雲がかかりつつも、冴々と輝く弦月。照らされて、群青の空に映える蘇芳・くれないの紅葉。
 そしてその下………絹糸のような黒髪を風になびかせる………幻。