例によって例のごとく。進藤ヒカルは学校帰り、馴染みのラーメン屋に立ち寄っていた。
(ニンニクチャーシューワカメにコーン、ってかぁ)
育ち盛りの中学1年生。大盛りラーメンの汁をずるるとすすっていると、客の一人が、店のテレビのチャンネルを変えた。
好みの番組を求めてか、数秒ごとにカチカチ回す。
「あっ…。おじさん、ごめん!今んとこ見せて!」
ちょうど丼をテーブルに置いたところだったヒカルは、ひとつの画面を見てそう叫んだ。
「なんだぁ坊主?こんなん見たいのか?」
作業着姿の男は、そんなことを言いながらもチャンネルを合わせてくれた。テレビには、(何かの特集だろうか?)懐かしい映像が映されている。
(佐為…これ、月だぜ。月の上)
ヒカルは、心持自分の後方に向けてそう教えてやった。
(月?え、月!?これが!?)
すぐに、驚きの声が返る。藤原佐為…ヒカルに「憑いて」いる平安貴族の霊である。
(おう。で、あそこ歩いてるのが、ごてごてしたもんつけてるけど、人、な。言ったろ。もう人間は月の上歩いてんだって)
案の定な佐為の反応に、ヒカルは笑いを殺しながら言を継げる。
(月!?月!?あれが!?だって光ってませんよ!?嘘だぁ!)
(ぶっ…。あのな。月は、本当は光ってないの。ウサギもいないの)
(え…ええーっ!?)
「あ、おじさん、あんがと!もういいよっ!」
これ以上理科的なことを突っ込まれるとまずいので、ヒカルはとりあえず佐為への現世教育を終了する。金を払ってラーメン屋から出た。
そろそろ日が沈もうとしている。西の空は、大半がビルでふさがれてしまっているが、逃れた部分には、放射状に、朱色の雲。
(ねぇ、ヒカル。やっぱりさっきのは嘘でしょう?)
少し落ち着いた口調で佐為が話し掛けてきた。
ラーメン屋で脱いだ学ランを、右から左へ持ち直し、ヒカルは、
(本当。あれが、月!)
(……本当?)
(本当)
(本当に本当?)
(本当に本当!)
風がほんの少し冷たかった。しかしまだ身体は温かい。
(あれが月…ですか)
やっと納得したらしい佐為が、しみじみと言った。
(私の時代から、月へ行くとは見果てぬ夢でしたが…。まさか、あんな不毛の地だとは…)
(…んなこと言ったってなぁ…)
ヒカルは困惑して頭をかいた。
(現実はああなんだから、仕方ないじゃん…)
空の、薄い水色のあたりを、豆粒のような飛行機が飛んでゆく。
(…何事も、追い求めているときが一番幸せなのかもしれませんね…)
1000年もの時間を背負った佐為の言葉に、ヒカルの心までも重くなる。
そうかもしれない、と同意しようとしたときだった。
(あ…)
駅前、つまり馴染みの碁会所へ通じる道路の向こうに、一人の少年が姿を現した。細身のシルエット。スタンドカラー。名門海王中の制服。……塔矢アキラ。
夕闇に沈もうとする町で、彼もまたヒカルに気づいた。
アキラは一度目を見開き、それから何か物言いたげに唇を開いた。
「……」
何か言ったのか、それとももれたのは吐息だけだったか。
この距離では分からない。ヒカルはその場を動けなかったし、アキラもまた、近づいてこようとはしなかった。
開いたままだった彼の唇が、かすかに微笑を形作ったが、おそらくは本人が意図したより淋しげな笑みだったに違いない。それはまるで、御伽噺を信じた子供が、初めて月の大地を目にしたときのように。
アキラは不必要な努力を止めて、微笑を捨てるとすぐにきびすを返し、駅のほうへと去っていった。
(…ヒカル…)
紫色になった雲が、薄く、流れる。
(…うん…佐為…、やっぱさっきの、違うよ。…追うことが目的なんじゃない。…追うのはやっぱり…捕まえるためだ)
月を目指すようなものかもしれない。
その上自分には、NASAもついていないしアポロもない。けれど。
(そうですね、ヒカル…)
佐為が静かに同意した。
(愚かなことを言いました。いいえ、人は愚かなままでよい。遠い先の悲しみに思いはせるより、目前のたわむれに命燃やすが人よ…)
そう、佐為は「神の一手」を。
(俺は…あいつを)
追って、そしていつか必ず捕まえる。
………必ず。