その日、葉瀬中将棋部の活動は、部員大多数の都合によって、下校時刻より大分早めに切り上げられた。
放課後の楽しみを奪われ、加賀はすこぶる不機嫌に校舎を後にした。…しようとした。
しかし、桜が舞い込む下足室で、ふいに考えが変わる。
(…筒井んとこにでも遊びに行ってやるか)
この春見切り発車的に立ち上がった囲碁部は、教師のお情けによって授業後の理科室を割り当てられていた。
すでに外靴を履いてしまっていたので、加賀は(…無論、また履きかえれば済むことなのだが)校舎の外をぐるりと回って、理科室へと向かった。
「進藤!」
と、切羽詰った叫び声が聞こえた。覚えのある声だ…と、加賀は数秒記憶を探り、そしてその姿が視界に入る一瞬前に思い出した。
(塔矢アキラ?)
三冠を持つ、囲碁の塔矢名人を父とし、また本人もプロ級の腕を持つ中学一年生。昔囲碁をやっていた加賀の、因縁の相手。
しかし彼は海王中の生徒のはずだ。なぜこんなところに。
「僕と打たない!?待て、どういうことだ!?進藤!!」
彼がいるのは、理科室の窓の外。室内には、囲碁部の一年、進藤ヒカルがいた。だが、やがて進藤の手により窓は閉められ、ついで無慈悲にもカーテンまで。
(おいおい…そこまでするかぁ?)
どうやら、対局を申し出た塔矢が、進藤にきっぱり振られた図…らしい。天下の塔矢アキラ相手に、なかなか不遜な態度ですこぶるよろしい…
塔矢は、しばし窓にコブシを押し付けうな垂れていたが、すぐに身を離し、キッとカーテンの向こうを見据えた。
(ああ…勝負師の目だ)
それは、囲碁でも将棋でも変わらない。盤向こうの相手を敵とみなした真剣なまなざし。
きっと、塔矢にこんな目をさせたのは進藤がはじめてだったに違いない。…加賀には、出来なかったのだ。
それだから塔矢は、今日もわざわざこんなところまで。進藤を追って。
「…塔矢」
声をかけると、塔矢は突然のことに驚いた様子で加賀を見た。
「……ああ…葉瀬中の大将の…」
「いや?俺は将棋部だ。前の大会には、助っ人で出場しただけでな」
「…そうなんですか?」
塔矢は数度瞬きをして、
「じゃあ…進藤のこともあまりご存知ないですね…」
加賀は苦笑をもらした。進藤のことしか頭にないのかこいつは。
(…俺は昔、お前に勝ったことがあるんだぜ?)
よっぽどそう言ってやろうかと思った。お前は、自分にまったく及ばない俺を哀れんで、わざと負けやがったんだぜ、と。
「…進藤に何か伝えといてやろうか?」
「あ、いえ…。もう言いたいことは言いましたから」
「…対局しないって言われてたな」
「します」
塔矢は即答した。理屈ではないこの自信が、子供のうぬぼれでないことはよく知っている。
「あ…と、じゃあ…お騒がせしました…」
ぺこりと礼をした塔矢を、加賀は思わず呼び止めていた。「おい。…また今度、一局付き合ってくれないか?」
塔矢は、また瞬きを数度して、笑みを見せた。
「はい。いずれ、また」
…いずれ、また。
その機会が巡ってくることはおそらくないだろう。自分と彼の歩む道は、あの幼い対局で交わり、今はもう離れ行く一方だ。
それでも口約束を取り付けずにいられなかったのは…
(今のお前なら、あんな姑息な負け方しないだろうから、さ…)
万が一対局の機会があれば、彼は圧倒的な力でもって自分を打ち負かすだろう。
強者を追う側の気持ちを、今の塔矢アキラは知っているから。
「おーい、つついー!遊びに来てやったぞっ」
「加賀!?なんで外から…」
まぁ、もう俺には関係ないこと。
加賀は、最後にはそう結論付けてはるか彼岸を眺む。
遠い日の屈辱は、黒と白では割り切れない思い出の中に。
CROSSROAD …… 今、道は分かたれる。