雨の中の傘の中の


 「…まぁた負けたぁ」
 がっくりと肩を落とし、進藤ヒカルは電灯に照らされた終局後の碁盤を恨めしげに見つめた。
 今日は昼過ぎから厚い雲に日は陰り、中途半端な薄暗さを遮るために、ここ、葉瀬中理科室の窓には重いカーテンが引かれている。ヒカル達は、夏の中学囲碁大会を目前に、毎日放課後、この場所で碁を打っているのだった。
 (うーん…悩みどころは良かったんですけどねぇ…。中盤のあそこで定石通り打つかどうかで……ヒカル聞いてます?)
 そして、ヒカルの背後で目を輝かせて解説しているのが、平安の天才棋士の幽霊・佐為である。
 「でも随分上達してきたよ。四月初めのことを思えば、すごい進歩だよ」
 上級生の筒井が、碁石を片しながらそう言った。
 「じゃ、打倒海王も夢じゃない!?」
 「はは…それはどうかな」
 「よっし!じゃ、次、三谷!打とうぜっ!」
 ヒカルは、彼が先日、半ば無理やり入部させた一年生に声をかけた。その三谷は、二つ向こうの実験台で頬杖をついて、イヤホンから流れる音楽に耳を傾けていた。
 「三谷ー!対局しようぜってば!今日こそ6連敗の記録を塗り替えるっ!」
 わめくヒカルをうっとうしげにねめつけ、三谷はため息と共にイヤホンを外した。
 「ああそうだ……。大会申し込みの締め切りが迫ってるんだ…」
 と、そのとき筒井がうつむいたまま、事務的口調で告げた。ずれ落ちかけている眼鏡を、指で押し上げて。
 「ヘ?申し込めばいいじゃん。なんで?」
 「……大将をね」
 「俺は別に何だっていいぜ」
 三谷が、言葉通り気のない様子で口を挟んだ。制服のポケットに両手を突っ込み、ぶらぶらと近づいてくる。
 「ま、棋力から見て進藤が三将なのは当然だろうな。大将はあんた、すれば?部長なんだし、一年に譲んの、嫌だろ」
 「……三谷、お前もうちょい穏便な言い方出来ねーの?」
 (…ヒカルは人のことが言えないと思いますが?)
 佐為の冷静な反論に、ヒカルはぐっと詰まる。普段から、やたらと一言多い彼だったので。
 「…一局打とうか。ズルはなしで。勝った方が大将だ」
 筒井が三谷を見上げて静かに言った。
 「いいぜ。律儀だねセンパイ。進藤、席代われ」
 「あ、うん」
 そう言えば、ヒカルと筒井、ヒカルと三谷は連日対局をしていたが、この二人が打つのは珍しい。もしかすると、ヒカルが三谷を初めて理科室に連れ込んだあの日以来かもしれない。
 (なな、佐為…。筒井さんと三谷って、どっちが強いの?)
 (それは……三谷君でしょう…)
 薄々感じていたことだが、やはりそうなのかとヒカルは少々鬱めいた気分になった。
 (筒井さん…こんなに熱心なのにな…)
 彼と碁を打っていると、囲碁が好きだという真摯な気持ちが伝わってくる。その真剣さは、たとえばあの塔矢アキラの……気迫とは、また違う種類のものだけれど。
 佐為が言った。
 (でも…碁が好きなだけでは…勝てませんから。……その上に絶え間ない努力。その上に才能…。碁は単なる娯楽ではありません)
 (…そりゃ、お前にとってはそうだろうけどさ)
 (では、ヒカルにとっては?)

 …やがて、筒井の「ありません」という声を耳にするまで、ヒカルは自分が、まったく対局を見ていなかったことに気づかなかった。
 「じゃあ…大将は三谷で……」
 「別に実力順にする必要ねーんだろ?」
 「……一勝じゃ上に上がれない」
 ヒカルは筒井のその言葉を軽く聞き流しかけたが、十五秒後、(……それって俺が負けるってことかよ…)。
 佐為が、ははは…とその場を繕う笑い声を上げた。
 「進藤君、交代しよう。僕はもう帰らなきゃいけないから」
 「あ…もう?」
 「夏期講習の手続きに行くんだ。…じゃ、また明日。片付けよろしく」
 再度眼鏡を押し上げて、筒井は実験台の上のカバンを取り上げると理科室を出て行った。……と思うと、またすぐにガラガラと扉を開け、「雨、降ってるよ」と一言告げた。
 「うわ、ほんと?」
 ヒカルはイスを降りると、窓際に駆け寄りカーテンを開けた。「…あーあ…降ってら…。傘あったっけかな…」
 「おい進藤。打つのか打たないのかどっちだよ」
 「あ、打つ!」
 (…いいなぁ…私も打ちたい…)
 佐為が心底羨ましげに呟くのを無視し、三谷と向き合う。
 そしてヒカルが、数十手目にして(佐為いわく)「無駄な長考」をしているとき、彼は先ほど開けたカーテンのずっと向こうを、筒井が歩いて行くのを見た。
 傘がぽっかりと、平坦な色味で空間を切り抜いていた。
 (…ヒカル…この布石の先を読むのはあなたにはまだ無理です。…ですから今はとりあえず……)
 筒井は副将になったのだ、と、不意にヒカルは思った。
 勝つために、それから囲碁への生真面目な態度のために。
 ぱちり、と、ヒカルは自分でもよく分からない一手を打っていた。
 佐為が何も言わず、また三谷がすぐに打ち返してきたところ、そう奇抜な手ではなかったらしい。
 石を置く。「夏期講習の手続き」。
 ぱち。「ホシイCDとかだってあるんだよ」。…これは、三谷。
 ぱちり。石を取られた。これは捨石だったろうか?
 …………自分たちは小さな傘の中にいる。碁笥に手を伸ばしながらヒカルは思った。
 囲碁は、生活の中の本当にちっぽけな一部分に過ぎず、筒井だって、佐為のようにそれにすべてを賭けているわけではない。…賭けられる、ものでもない。
 今自分たちにとって囲碁は、「部活」とか、「趣味」だとか、そんな小さな、本当に小さな言葉の影でしかないのだ。
 …その中の喜び、その中の悔しさ、ただその中の……
 しかし傘を捨て、更なる高みを目指すだけの意志も契機も、今のヒカルにはありえなかった。

 いしを、おく。勝敗はすでに目に見えていた。