199X年

 テレビの特番でその名前を知って以来、佐為のマイブームは「のすとらだむす」だ。
(だってヒカル! 本当に恐怖の大王が降ってきたらどうするんですか!? もうすぐそこなんですよ、7月は!!)
(こねー、こねー…)
(勿論私だってこの千年の間、様々な地獄絵図は目にしてきましたが…諸行無常の人のあわれ…うぅ…)
(へぇへぇ、そのココロは?)
(そういうときは碁が打てないんですよ!!!!)
(やっぱりそれかい…)

 真夏日が続くようになった。
 キミに神の一手を見たとさえ思ったのに。なにがしかのそんな捨て台詞で幕を閉じた囲碁大会も終わり、いよいよ夏真っ盛りである。
「ぅあっちー、あちちっ」
 駅前のインターネットカフェに駆け込むと、途端冷気に救われた。「天国だーぁ」
「あら、こんにちは」
「こんにちはー。外あちーよ」
 三谷のお姉さんは優しくて綺麗だ。弟とは全然違う。最近かなりの頻度でここに通っているのに、いつも笑顔で迎えてくれる。それになんというかこう、別にそういう意味ではないけれど体つきが女らしい。あかりとは全然違う。
 涼しいし、宿題をしろとか叱られないし、打ってさえいれば佐為はご機嫌だ、言うことはない。
 そういえば一度、対局途中で機械がおかしくなってしまったことがある。もしや壊してしまったのかと大慌てで三谷のお姉さんを呼んだのだが、よくあることだと言われてほっとした。
 ただ、佐為の対局は中断されたままになって、機械が直ってから再度その対局相手を探したのだけれどもういなかった。
 結構強かったのに、結構強かったのに…と佐為は恨めしそうに機械に頬擦りしていた。よく分からない感情表現だ。
 連勝を続けるにつれ、放っておいても対局申し込みが次から次へと来るようになった。日本、アメリカ、中国、カナダ…(他の国の英語は読めない)。世界を相手に佐為は百戦連勝していた。すげぇなと思いながら、自分はちょくちょく用事を作っては三谷のお姉さんを呼び出したりする。
 佐為はこの自分以上にコンピューターについて疎いから、逐一の用件が妥当なものかどうか判断が出来ない。にこにこしている。勿論ちゃんと碁も打っている。それが目的なんだから、当然。
 強い奴を相手に打っているときは、内容が高度すぎててんでついていけないが、たまに初心者と打つ機会があれば、佐為は解説つきで丁寧に打ってくれる。やっぱり佐為は強いのだ。
(でもお前なんか強くて当然だよなー。千年碁一筋なんだもんな)
 ネットカフェの帰り、駅を出たところでそうぼやくと返事がなかった。
(佐為?)
 見上げると佐為はぽかんと空を見ていた。
(ひ…ヒカルっ)
 やがて引きつった声で名を呼ぶ。
(あ?)
(きょ、きょきょきょきょ…)
(………きょんきょん? 小泉今日子? ……誰だそりゃ)
(きょ、恐怖の大王ですよ!! ヒカル!!)
 誰も突っ込んでくれないボケをかましていると、がくがく肩を揺さぶってくる。勿論物理的な感覚はないけれど、なぜかしら本当にがくがくした気分になるから不思議だ。
(…今日麩の味噌汁?)
(誰が夕飯のオカズの話をしてるんですか! ほら、あれ!! あれ!!!)
 佐為が指差す方向を見てみると、ちかちか銀色に光るものが浮んでいた。
(ににににににに、逃げないと! ヒカル!!)
 お前はもう死んでいるくせに、ガマガエルの他に一体何が怖いのだ。
(ひーかーるっー!!!!)
 泣きながらすがり付いてくる佐為の、着物の裾をすり抜けながら、親子連れが自転車で走り去った。
「飛行船なんて都内で見れるのねぇ」
 甲高い声。
(佐為。さーい)
(うぅぅぅ、もう駄目だぁ…今生でも私は神の一手を極められないんですね…うぅ…)
(佐為。ありゃ飛行船だよ。えーと、飛行機と、気球の、あいの子みたいなもん)
(……ひこうせん?)
 楕円を潰したような形をした、銀色の飛行船がゆったりと空に浮んでいる。ビルとビルの間に行けばよく見えた。
(ほら、横っ腹に、宣伝とか書いてあるだろ?)
(………おぉぉ…)
 佐為は今度は心から感心したように飛行船の機体に見入っている。
 何せ最近は連日コンピュータを弄っているので、佐為はゴロゴロガラン(自動販売機)、にも、バッ(折りたたみ傘)、にも驚かなくなって久しい。なのでこんな新鮮な反応は久し振りだ。歩道橋の上に駆け上がって、もっとよく見える場所を確保してやる。
(はぁぁぁ…ほぉぉぉ…すごいんですねぇ…どうしてあんなものが空を飛ぶんでしょうねぇ、鳥のように翼があるわけでもないのに…)
(それは…まぁ、その、いろいろあるんだよ。オレに聞くな。飛行船は空を飛ぶもんなの)
 昔は自分も。
 こんなふうに素直に疑問を抱いたような気もするが。
 どうして飛行機なんてあんな重そうなものが空を飛ぶんだ? なんで舟は浮いてるんだ?
 どうしてだろうな、だってそういうもんなんだよ。
 お前が、強いのだって、

 飛行船はやがて夕焼けに吸い込まれて小さくなった。夏は日が長いといってもそろそろそんな時間だ。
(恐怖の大王じゃなくて残念だったな、佐為)
(とんでもない! よかったですよ、ほっとしました!!)
 何せまだまだこの世界は滅んでくれちゃ困るのだ。1999年ごときじゃ執念は断てない。しょうがない、だってお前はそういう奴だ。
 歩道橋の階段の最後の一段を飛び降りた。よっし明日もいっぱい打とうな、佐為。7月がビルの谷間に暮れかけていた。佐為を超えることなんて、思いもよらなかった。