塔矢アキラは茶色のトレイに紙コップだけを乗せ、注意深く段差を下ってからきょろきょろ周囲を見回した。
「塔矢、ここ」
 合図すると近付いてくる。塔矢アキラ生涯三度目のファーストフード体験。
「アイスティーだけかよ」
「おなか空いてない」
「俺は打ってると腹ぺこになるけどなぁ。でも芹沢先生の研究会は全然ましだよな。日野さんのクッキー旨かった」
 日野裕子四段は芹沢の妻である棋士だ。自らも研究会に参加しながら、ヒカルらのために菓子をふるまってくれる。そのせいもあるのか、土曜日の緒方の研究会とはかなり雰囲気が違う。葉瀬中囲碁部や森下門下、和谷のアパートでの集まりなど、アットホームな空気に慣れたヒカルには心地好い。
「…甘いものをあれだけ平らげた上に、よくそんなに食べる気になるね」
 アキラが、ボリュームたっぷりのハンバーガーをぱくつくヒカルを異星人のように評した。
「でも君、前ほどはぷくぷくしてないね」
「……んな話しに来たんじゃねーよ。えーと、だから斉藤孫」
 アキラはアイスティーにミルクを入れてかき混ぜている。その手を止めて顔を上げた。
「驚いた。君、斉藤先生を知ってるのか?」
「土曜日会ったぜ。お前負けたんだって?」
「ああ…。まだ多少おぼつかない手もあったけれど筋はいいと思ったよ。ひらめきに味がある。次は置き石を減らすよ」
 ヒカルは慌ててナゲットを飲み込んだ。
「互戦じゃなかったのか?!」
「うん、二子置いた」
 さらりと答えるアキラに、なあんだ、と天井を仰ぐ。
「何が、なあんだ、なんだ?」
「ううん、なんでもねぇっ」
 アキラのまなざしが剣呑に光るを見て取って、大急ぎで話題を変えた。

 次に古瀬村に会ったら誤解を解いておこう。そうヒカルが悠長に構えている間に、無責任な噂はおおいに羽根を伸ばした。いわく「塔矢アキラがアマの子どもに負けたらしい」、いやいや「ただの子どもではないらしい。塔矢アキラに匹敵するサラブレッドで、今年のプロ試験に出てくるそうだ」。
 噂は当のアキラの耳にももちろん届いていた。ただし、「アマ」「子ども」「惨敗」などの断片的な言葉を聞いたときは、無条件に進藤ヒカルを連想し、なぜいまさらあのときのことが人の口に上るのか、まあ進藤も最近は木曜日の常連だし、これも彼が頭角を現してきた証拠だろうか、それにしても思い返すだに不可解でかつ悔しさが募る…と一日悶々とし、その日の対局者を怯えさせていた。
 噂の「子ども」が別人だということに思い当たったのは夜布団に入る頃で、それはそれで不快なことには変わりなかったが、多少は安らかに眠ることができた。
 塔矢元名人の息子。しばらく意識することのなかった己の立場が、サラブレッド対決と煽られることで否応なく強調される。名前も忘れた斉藤某が今年のプロ試験を外来として受験することはすでに本人から聞いていたし、合格するだけの力があることも知っている。一歳違いで自分と似た立場にある少年が話題になるのは分からないでもないが…
(……やっぱり、不快だ)
 現金だが今度は進藤ヒカルでないことに腹が立つ。自分自身大人気ないことは分かっている。
「—や、塔矢…!」
 大体が今は大事なときだ。春から始まった大手合いに続き、各棋戦の予選も順次始まっている。進藤ヒカルは快調だ。
「塔矢!…さん…」
「はい」
 呼び止められているのが自分だと気付き、アキラは競歩かというくらい早くなっていた足取りを止めた。暴力的な太陽が、お堀の水を輝かせる市ヶ谷の駅前だ。
 振り返ると、ぜいぜい息を切らせた少年が、だぼっとしたジーンズの膝に両手をついて呼吸を整えていた。
 アキラはしばし無言になった。誰だか分からなかったのだ。やんちゃそうに、硬めの髪の毛があちらこちらに跳ねている。見たことがある、ような。……ないような。
「もーっ!棋院出たとこから呼んでんのに!あんまり無視すっからドッペルゲンガーかと思ったじゃん、塔矢!……さん」
 控え目な「さん」付けに、よし顔も名前も忘れてしまって大失礼に当たるような間柄ではないはずだと判断する。
「…すまない。……君は、」
 誰だったか問おうとしたが、相手はアキラの言葉を遮るようにわたふたと手を振った。
「ああっ、そりゃ俺なんか、全然まだまだだけどさっ!無視されても仕方ないっつーか!でもでも俺絶対いつか北斗杯に…」
 大きく高い声が、すっとフェードアウトした。それから彼は、言葉と合わせて垂れ下がった栗色の頭を上げた。
「…塔矢…さん……もし時間あったら一局打ってくれませんか?」
 快活な外見と裏腹に弱々しい声。情にほだされたわけでもないが、アキラは「いいよ」と応じた。
 二人で棋院にとんぼ返りし、一般対局室へ。アキラが手に取った碁けは黒だったので、取り替えようとすると「握る!」と言われた。結果はアキラが白で落ち着いたものの。
 白髪の老人が、二人の対局を見学に近付いてきた。塔矢アキラに気付いたものらしい。アキラの側に立ち、ふむと顎を撫で、黒の後ろから盤を眺め、うむむと唸る。少年は気が散るようでもなく石の流れに集中している。打てば思い出すかとも思ったが、やはり駄目だった。棋力は院生二組の上位クラスあたりだろう。院生。そうだ、院生かもしれない。
「……ありません…」
 やがて黒が投了。アキラは思わず顔を上げた。
「え? もう?」
「もう…って、だって今ので九石が死んだし、中央の黒模様も…」
「生きるよ。君はここを凌ぐことばかりに気が行ってしまったようだけど、先にこの手で白を押さえておけば黒は死なない。苦しいのは事実だけれど戦える」
「…ここから? そんなの無理だよ……塔矢相手に」
「何だって?」
 声が大きくなった。二人の検討を聞いていた老人が慌てて机を離れていった。
「相手によって弱気な碁を打つのか? 君はそれでも碁打ちか? 黒には後方の地が広がっている。一間…いや二間に打てば、補強されるだけでなく白への牽制になる」
「そ…んな、うまく行かないよ! 俺、あんたや進藤や…岡ほど才能ねえもん!」


 まじめになる。きちんと勉強して、院生研修もさぼらない。それでプロになって北斗杯に出るんだ。…強くなって。
(岡、若獅子戦から絶好調よね。予選の頃には一組上位になるんじゃない?)
(ああ、なんだか二年前の進藤みたいだよな)
(岡は、勉強家だものね。……あーあ、でも私だって怠けてるわけじゃないんだけどなーっ)
 ……俺だって。俺だって真面目に、打ってる。なのにどうしてこのヨミが抜けていたんだろう。どうしてこんなやすやすと付け込まれてしまったんだろう。
(だ…だから言ったろ?! お前がそんな簡単に真面目になれるわけないって!)
 岡が怒鳴って、また師範に叱られて、それで拗ねたように俯いた。怒られたからってだけじゃない。頭打ちになっている俺に何て言えばいいのか分からないのだ。…俺は岡に、哀れまれている。


「……才能?」
 心臓がひやっとするような声だった。
庄司は反射的に肩を震わせ恐る恐る盤向かいの塔矢アキラを見た。自分はもしや、一番恐ろしい相手に一番言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。
「そうか、君は才能がないのか。本人が言うなら、そうなのかもしれないな。尊重するよ」
 怯える庄司を一睨みし、アキラは石を碁けに入れながら冷ややかに続けた。
「……それで?」
 手荒く碁けに蓋をする。手つきと比べて間の抜けた音がした。
「それで? だから? 才能がない、だからなんなんだ? 碁を止めるのか? 自分より弱い相手としか打たないのか? 君は、勝てる相手としか打たないのか? ………それならなぜ、僕に対局を申し込んだ?」
 アキラの言葉はそこで少し落ち着いた。庄司は深く俯いて膝の上で握り拳を作った。
「……君の中にすでにある答えを、わざわざ僕に言わせるな」
 最後には静かな声音だった。冷たい言い方ではあったが、突き放した内容でもあったけれど、それ以上に意味があった。
 アキラが毅然と席を立ち離れていく。庄司は座ったまま唇を噛んだ。
「おい」
 アキラと入れ替わるように現れた人影。慌てて顔を上げ、何度も瞬きをした。
「お前、何してたんだ……塔矢と」
 岡だった。
「……打ってた」
 ぼんやり答えると、岡は何か言いかけるように口を開いた。
 お前なんかが、なんで、塔矢と……と、言われるかと思った。
「…並べろよ。俺、見たい」
 岡は椅子を引き、腰掛ける。
 机の狭いスペースに肘を付き、むくれたような表情には見覚えがあった。
 自分がちょっかいを出して、むきになって、叱られたとき。
 なんだ。
 なんだ、変わってない。
「…やーだねっ!」
「……なんだとっ?」
「誰がお前なんかに見せてやるか。それより打とうぜっ!打とう!」
 庄司は碁盤の上の黒石を、ざっと両手で脇に寄せてからにっと笑った。