「何言ってるんだ、こんな攪乱させるだけの手を打ってどうする?!」
「で、でもだな、どうせ地では負けてんだから、」
「どうせ?!」
「……ことばのあやだろ……」
 広い庭で一段とやかましく蝉が鳴く。一体何がどうしてこんなことになっちまったのだと和谷は頭を抱えたくなった。越智が二三、和谷の打ち回しを擁護するような(ただし本人にその意図はなかろう)口を挟むが、塔矢アキラはさらに声を荒げてその意見を一蹴した。越智が以前塔矢に指導を受けていたというのも二人の性格上信じがたいのに、こんな塔矢を知りながら、のこのこ「塔矢邸での研究会」などという恐ろしいものに顔を出す神経も分からない。ある意味越智は凄い。
 隣の碁盤では……それはもちろん、脚付き碁盤と碁石が一組以上あるという点では随分と研究会らしくなったのだ……冴木と伊角、門脇に、なぜか塔矢門下の芦原が加わり、なごやかに棋譜の検討が行われている。そっちに混ぜてもらいたい、と和谷は心の底から思った。
 と、玄関先から物音が聞こえた。誰か来たのか、誰でもいい、塔矢アキラの、的を射ているだけに厄介な叱責の嵐から逃れられるなら。
「あ、両親かな」
 しかし、その一声を聞いて和谷は凍り付いた。和谷だけでなく、一同の動きが止まる。
「ちょっと待て塔矢!台湾行ってるんじゃなかったのかよ?!」
「うん、そのはずだったんだけど昨夜遅くに連絡があって、予定早めて今日帰るって。あ、別に支障ないよ。気にしないで続けてくれれば」
 気にするに決まってんだろ、と怒鳴る前に、朗らかな女性の「ただいま」の声が響き渡った。

「まあ。アキラさんのお友達だわ。アキラさんのお友達だわ」
 塔矢明子夫人は、まあを五回は繰り返して赤らんだ頬に手を当てた。
「アキラさん、お茶しかお出ししていないのね。この間頂いた舟和の芋羊羹はまだあった? ないの? あら大変、台湾土産でお若い人の口に合うようなものあったかしら」
 帰宅早々いそいそと動き回る彼女に、友達だなんてとんでもないですと否定もできず、何よりその隣で腕組みしているこの家の主が恐ろしい。あれよあれよと言う間に座卓が用意され、何の因果か恐れ多くも、塔矢行洋元名人と台湾の菓子を頂くことになった。
「それで、旅行はどうだったんですか?」
 湯呑みを置いたアキラが、少し居ずまいを正して父親へと言葉を発した。
 塔矢元名人は、息子の問いに低く相槌を打っただけだった。和谷は緊張のためか足が痺れてきた。
「えーと…台湾へは観光ですか? 棋戦があったわけじゃありませんよね」
 最年長の門脇が、責任を感じたか口を開いた。
「…非常に碁に秀でた子どもがいると聞いてね。会いにいってきた」
 さすがに今度は「うむ」で終わらせられず、門脇は幾分安堵した面持ちだ。
「へえ…。日本もそうですが、最近は若年層が期待できますね。噂の真相はどうだったんですか?」
「ああ……若者、というだけでなく、女性棋士の時代に期待ができると思ったよ」
「女の子なんですか?」
 芦原がなぜかしら嬉しそうな声を出し、塔矢夫人が茶のおかわりを注ぎながら、ころころ笑った。
「しっかりとしたお嬢さんだったわよ。でも芦原さんとは年が離れ過ぎね。そうだ、アキラさんが結婚するならあんな方がいいかしら」
「え?」
 思いがけず出てきた自分の名前に、アキラは思わず高い音程で聞き返し、明子夫人はまた上品に笑った。どうやら機嫌がよいらしい。それは何よりだが、和谷はとにかく早く足を崩したくて仕方無かった。同年代の子どもらと比べるとはるかに正座慣れしているというのに、やはり緊張だ、ああ逃げたい。
 もぞもぞしていると、横の伊角が気がついて心配げだ。
「………で、でも、それならゆっくりしてくればよかったのに。どうして予定変わったの?」
 アキラが強引に話題を変えて母親に尋ねた。
「ああ、そうなの。実は斉藤先生が東京に戻られるとお聞きして」
 斉藤先生。聞いたことのある名前だと、苦心して体重のバランスを調整していた和谷は思った。
 なんだっけ、インターネット…?
「でもよかったわ。そのおかげでこんなにたくさんアキラさんのお友達にお会いできて。あら、でも進藤くんはいないのね。アキラさん、進藤くんはいらっしゃらないの?」


 この棋譜は以前和谷たちの研究会でも検討した。
 そのとき門脇が悩んでいたツギについて、緒方が明快に「実戦より得るものが多い」と意見した。
「でも」ヒカルが口を挟む。盤を囲む一同の視線がそそがれて居心地が悪い。煙草の煙が流れてくる。
「確かに厚くなるけど、先の攻防を考えたら俺ならその手でこの白を殺す」
「この局面で焦りを見せても仕方ない」
 立花七段が煙草を灰皿に押しつける。
「実際、こちらに打った後黒はこの白の…ケイマにカカっていくしかなくなる。それではあまりに白よしだ」
「だってそうすると白だって後の手が限定される。辺に追い詰めれば…」
「それが強引すぎるんだ。手広く構えて白を受ければいい」
「だけど…」
 ヒカルと立花の応酬をおもしろそうに聞いていた緒方が、ふと立ち上がり部屋を出ていった。姿が見えなくなる寸前、携帯電話を取り出すのが見えたので、着信があったのかもしれない。
 数分後、反論の糸口が見つからずヒカルが口をつぐんだのを見計らったかのように現れ、「斉藤先生がお見えになる」と告げた。
 わずかな動揺が、数人の間に走った。ヒカルは、緒方のもったいぶった口調から、それが誰か偉い人なのだろうと予想した。そもそも自分はこの世界に無知だ。それでも大分ましになったとはいえ。
(棋聖、名人、本因坊…)
 そのどれでもない。
「…あのー……それ誰ですか?」
 年かさの棋士が顔をしかめたのに気付き、慌てて言い直す。「そ、その人…」
「進藤が知らなくても仕方ないですよ、古谷さん」
 立花七段が気安く笑った。
「十年一昔。斉藤・塔矢の時代が来るなんて騒がれたのは今からすれば大昔です。僕だって実際には存じ上げてません」
 ヒカルは立花の顔を見て、それから立ったままの緒方を見上げた。
「斉藤先生は」結局、ヒカルをはじめ若手への説明を受け持ったのは緒方だった。
「塔矢先生の兄弟子に当たる方だ。若手の頃から頭三四つ分抜きんでたお力をお持ちだったが、お体を壊されて入段十年で引退された。その時点で八段。順当にいけば一年後には最低でも二冠を奪取し推挙で九段になるだろうと噂されていた直前だった」
 緒方はそこで一度言葉を止めた。
「そろそろお出でだな。進藤来い。斉藤先生は車椅子だ。手伝って差し上げろ」
 指名され、ヒカルは立ち上がると緒方についてエレベーターに乗り込んだ。
「療養のためずっと鎌倉にいたのが、孫の進学問題なんぞでついに東京に戻ってきたんだ。お前は運がいいぞ」
「はあ…」
 ヒカルは生返事をして肩をすくめた。
「初手小目の名人、と呼ばれた爺さんだよ」
 緒方がそう続け、エレベーターを降りた。
 外の様子が見える頃には、ちょうど、棋院の外に止まった黒塗りのタクシーから、子どもが転がるように降りてくるところだった。
 あれは違うよな、と思っていると、一年前のヒカルと同じくらい小さなその少年は、トランクから車椅子を引っ張り出した。タクシーの運転手が手助けしようと近付く前に、折り畳まれたそれをさっさと広げる。
「…手伝いにいかなくていいの?」
 ヒカルが聞くと、緒方は「暑いからいやだ」とのたまった。
「お前、行きたいなら行け」と言うので、ヒカルは仕方なく一人で外に出た。
「…これ、支えとけばいいのか?」
 少年はヒカルを見て、ふるふる首を振った。
「ストッパーあるからいい」
 それから、運転手と二人がかりで、後部座席から痩せた老人を運びだし車椅子に乗せた。慣れた手つきは、体付きから想像するよりずっとしっかりして見えた。同い年くらいかもしれないと考えを改める。ヒカルの祖父母は四人とも健在なため、車椅子など見るとぎょっとするのだ。
 突っ立っていると、緒方も外に出てヒカルの斜め前で一礼した。
「ご無沙汰しております、先生」
 ヒカルはつられて、慌ただしくぺこりと頭を下げた。
 はたして、車椅子の好好爺が噂の斉藤先生らしい。塔矢先生とも、桑原本因坊とも似ていない。麻の長袖シャツを着て育ちのよさげな笑みを浮かべる老人は、黒スーツにステッキを持たせれば英国紳士で通りそうだ。
「久し振りだねえ。いや二冠の貫禄がついてきたようだ」
 老人は細い声で、前進するよう孫に指示した。
「そっちの君も知っているよ。北斗杯に出ていた…進藤くんだ。高永夏戦はおもしろかった。インターネット中継で見ていたが、モニターの前で年がいもなくわくわくしたよ」
「…あ…ども…」
 斉藤は、品のよい笑い声でほほと笑った。
「山に籠った今浦島になりたくはなくてね、最近の棋戦も棋譜もきちんとチェックしているよ。便利な世の中で助かる」
「…お元気そうで何よりです」
 緒方がエレベーターの扉を押さえ、車椅子を先に乗り込ませた。
「いかんせん体はなかなか思うようにならないが、碁石は持てるよ。長時間碁盤の前に座る体力はないけれど、最近では孫が代わりに打ってくれる。…便利な世の中だからね」
 碁打つんだ、とヒカルは車椅子を押す小柄な少年の顔を見た。
「進藤くんはいくつだったかな」
「え、じ、十五…もうすぐ十六です」
 孫は一つ下だ、と斉藤が答えた。研究会が行われている部屋へ上がるため、当の少年が車椅子の車輪を拭った。
「斉藤先生」
 塔矢門下出身の中年の棋士がわたふたと出迎えた。
「古谷くんか。大きくなったもんだ。私も年を取るわけだ」
「いやご冗談を…。塔矢先生にはお会いになったんですか。ああいや今は台湾でしたか」
「行洋とは明日約束がある。心配いらないよ。……棋院も東京も様変わりしているね。やはり浦島気分は免れないようだ」
 自嘲と言うには朗らかに笑いながら、斉藤は実の子を見るように目を細めた。視線の先には、棋院の使い込まれた碁盤と、その上に並べられた碁石があった。


 月曜日、芹沢の研究会に足を運ぶついでに、ヒカルは棋院を訪れた。と、一階ロビーで顔馴染みの出版部記者が二人、声高だ。もっとも正確には、小さい方の…古瀬村が喚いているのであって、長身眼鏡の相方はうんざりという調子で応対している。
「あ、進藤くん!」
 古瀬村が目敏く、ぱっと顔を輝かせた。
「進藤くんなら知ってるかな。ねえ、塔矢くんから何か聞いてない?」
「塔矢?」
「そう、塔矢くんが斉藤……あ、斉藤先生は知らないかな。昔大活躍してた偉い方らしいんだけど…」
「知ってる。初手小目の名人」
 そうそう、と古瀬村は手をぱちぱち打った。シンバルを叩くおもちゃのようだ。
「その斉藤大先生! の、お孫さんと昨日対局したんだって」
「へえ…」
 小柄な体で車椅子を押していた少年を思いだす。どんな碁を打つのだろう。
 俺も打ってみたいな、じーちゃんの方とも、と感想を口にしようとしたとき、古瀬村が一段と大きな声を出した。
「で、負けたらしいんだよ! あの塔矢アキラが、年下の男の子に!」