海外旅行の発着時に幾度か通り過ぎただけの国際空港を、門脇は正午過ぎ訪れた。待ち合わせた時間を超過していることを、見慣れぬスーツ姿の友人が非難したが、軽く受け流す。彼の乗る便にはまだまだ余裕があることを知っていた。
「…お前もついに年貢の納め時か。先にプロになっといてよかったぜ」
 この春正式にプロ棋士となったとき、門脇は彼をモラトリアム残留組とからかったのだった。
「しかも中国の注目ベンチャー企業。おい、出世したら何か奢れよ。団体戦でこけた恨みをちゃらにしてやるから」
 所詮下請けだよ。大体いつの話をしてると呆れる友人の前途を、門脇なりの言葉で祝し、彼が発着ロビーに消えるまで見送った。
 空港内は空調がよく効いていて、アロハシャツの短い袖から潜り込む風は肌寒いほどだった。
(さて、じゃあ俺は俺の場所で頑張りますか)
 空港内の売店で、景気づけに民族工芸風のブレスレットを購入してから、門脇は若手プロ棋士の集まる研究会へと向かった。年は十近く下だがプロとしては一年先輩に当たる和谷のアパートだ。毎土曜日恒例となったリーグ戦、門脇は現在四連勝中。
「よお。……なんだ、今日は満員御礼だな」
 六畳の部屋には、リーグ戦に参加している8名全員がいた。一人も抜けていないのはこれが初めてかもしれない。
「もうすぐ進藤帰りますから。狭いですけど我慢してください」
 部屋の主が苦笑しながら門脇のためにペットボトルから茶を注いだ。
「進藤帰るのか?」
「今日うち夕飯外食なんで六時には帰れって母さんが」
「なんだ、じゃああんまり時間ないな。今日は君との対局だと思ったから悪友の見送り切り上げて来たのに」
「門脇さんが長考しなけりゃ打てますよ」
 まるで不敵に笑う相手に、門脇は「よし早碁だな」と誘いを受けた。碁盤の前に座っていた冴木と中山が、二人のために場所を空け、自分たちは小さなポータブル碁盤を広げた。
「俺が握るよ」
「門脇さん、いい加減進藤に土つけて下さいよ」
「和谷、そしたら門脇さんが連勝になんぞ?」
「伊角さんもな。……くそー」
 門脇が白番になった。些細なことだが、進藤ヒカルは石を当てるのが上手い。
 対局時計はない。感覚的に、双方一手三十秒ほどの早碁となった。
「そうだ中山さん。俺昨日もネットで見たぜ。…sai」
「その言い方だとまた偽者だろ?」
「当たり。ったく、騙る奴に限ってへぼなんだぜ」
 黒模様を荒らす勝負手を打ち込み、門脇が対局者の様子を伺うと、彼は不思議に、わずかな微笑を浮かべていた。


 この近くに安いかき氷を売る焼きそば屋を見つけたと冴木が言うので、和谷義高は、研究会後も居残った伊角も誘い、三人で外出した。
 日の長い初夏といえ、とっぷりと暮れた下町を連れだって歩きながら、いい加減手狭になった部屋について考えた。
「これからも今日みたいに集まりいいのかなあ。フルメンバだとさすがに狭いよなあ」
「和谷お前もっと広い家に引っ越せ」
「無茶言うなよ冴木さん」
「でも実際、今がぎりぎりだよな。小宮や奈瀬も前来てたんだろ?」
 伊角が目指す商店街の看板を見つけて指差した。
「もうすぐプロ試験予選だし、レベルが違うみたいなこと言ってたから奈瀬はもう来ないと思うぜ。小宮は分かんないな。…棋院の部屋とか…」
 もともと、一人暮らしを自慢するために始まったような研究会なので、あまり大仰になるのは腰が引ける。とはいえ、門脇が参加するようになった頃から、それなりに噂される集まりになったことも事実だ。
「棋院なあ…取れたら一番だけど、土曜の午後は空いてないんじゃないか?」
 冴木が応え、先だって古いのれんをくぐった。ソースの焼ける香ばしい匂いを、年代物の扇風機がかき混ぜていた。
「飯も食うだろ? 焼きそばと広島焼き3人前ずつ」
 冴木が、水を運んできた店員に注文をする。と、その斜め向かい、和谷の隣に座った伊角が呟いた。
「塔矢先生のお宅とか」
 森下門下の和谷、冴木にとってはあまりに突飛な発想に、二人は会話の流れを掴み損ねたかと沈黙した。
「若獅子戦決勝の後で塔矢と話してたさ、それから結構棋院とかでも世間話してるんだけど、ほら北斗杯の前に進藤たちが塔矢の家で合宿したって言ってたろう? 実際塔矢先生が海外に出ずっぱりで、塔矢門下の研究会もご無沙汰らしいよ」
「…いや、ちょっと待ってよ伊角さん」
 テーブルの上の鉄板で、具材が勢いよく湯気を立て初めてようやく和谷は口を挟んだ。
「んな恐ろしいこと誰も考えてねーって。森下先生が何て言うか…」
「森下先生?」
 今度は伊角が首を傾げた。冴木は黙々とコテを使い出した。
(……森下門下の塔矢門下へのライバル意識って…ハタから見てさえ認知されてねーのか…)
 悩める和谷に、伊角は言葉を続けた。
「森下先生と塔矢先生は同期だし仲もよろしいだろ? 弟子が塔矢くんと切磋琢磨するようになったら喜ぶんじゃないのか?」
(………先生…)
(何も言うな、和谷…)
 遠い目をして物思う二人をよそに、伊角はいそいそとソバを取り分け、「お前から言い辛いなら進藤経由でもいいし、俺からそれとなく話しておくよ」と、ソースの絡んだ小エビを旨そうに頬張った。


「いやついに緒方先生もお弟子をお取りになりますか!」
 何が嬉しいのか紅潮した顔の棋院職員を前に、緒方は苦笑した。
「そういうわけではありませんよ。その予定もありません。ただ塔矢先生もご不在がちですし、最近対局に追われて自分の勉強が疎かでしてね。一昨年に引き続き桑原先生から本因坊を奪い取ってやれ……いや失礼、奪い取って差し上げられなかった原因の一つもその辺りにありそうで。ですから自分で研究会を開いてみようと思っただけです」
「ですが、お若い方なんかもお誘いになるわけでしょう? そうすると…」
 身を乗り出し意気込む男を諫めるように、緒方は軽く手を振った。
「若手にはもちろん参加して欲しいですが、弟子として取るつもりはまったくありません。互いに若い英気を養いあえればいいと思います」
「そうするとやはり塔矢アキラくんですか。いや、芹沢先生も毎月曜欠かさず研究会をされていますし、これからは緒方先生や芹沢先生、畑中名人らが下を育てていく時代ですよ。あ、部屋はもちろん使用して下さって結構ですので、またカギや使用方法について…」
「ええ、詳しい説明はまた後日よろしくお願いします」
 かつりと革靴の踵を返し、緒方は半ば逃げるように外へ出た。次第に夜でも蒸し暑くなってきた。風がない。愛車に乗り込み、エンジンをかけようとして、ふと今なら捕まるかと思い付いた。
携帯電話をスーツの内ポケットから取り出して、発信操作をする。呼び出し音の聞こえる間、煙草に火をつけた。
「はい」
 やがて不審げな声が音に応えた。
「今大丈夫か?」
「……もしかして緒方先生? なんで俺の携帯知ってるんですか?」
 純粋に驚いているらしい進藤ヒカルに、くくくと笑いが漏れた。
「さあ、どうしてだろうな。ところで進藤、お前俺の研究会に参加するつもりはないか?」
 数秒の沈黙。答えが帰る前に緒方は続けた。「塔矢門下ももちろんいるがそれだけじゃない。最近の有望株には門下や経験を問わず声を掛けている。悪い話じゃないだろう? すでに引退された大御所もおいでになるかもしれんし、何より…」
 …塔矢アキラがいない。
「…塔矢? どういう意味?」
「そのままだ。アキラくんは誘わない。お前も前に言ってただろう。塔矢アキラと肩を並べてお勉強なんかしたくない、俺はアイツと戦いたいんだ—。俺も同じだ。でないと桑原の猿ジジイを倒すことにかまけて、気付くとアキラくんにタイトルを奪われていたなんてことになりかねん」
 電話の向こうはまたしばしの沈黙。
「芹沢の研究会はどうだ? 派閥を作る気はないし、行くなとは言わんが、お前の力を伸ばせるのはこっちだと思うぞ。世界に通用する碁打ちしか俺は要らんよ」
 車の窓を開け、煙草の煙を吐く。返事を待つ。最近この子どもは口をつく言葉に慎重になったようだった。いい傾向だ。
「……行くよ。行きます。いつですか?」
「毎週土曜日の午後。棋院だ」
「土曜日…」
 電話の向こうから犬の鳴き声が漏れていた。屋外らしい。帰宅の足を止め、じっと考える進藤ヒカルの姿が浮かんだ。
「…分かりました」
 返事の直前に、何へ向けたか分からないかすかな笑いが聞こえた気がした。


 ……いささか塔矢の分が悪い。様子を伺うだけのつもりだったが、その場に膝をついて盤面を見る。地合いでは勝っているが流れは向こう側だ。六子は捨てざるを得ないだろう。
 ただの…と言っては何だが、昨年の本因坊リーグ出場者にとってはやはり単なる大手合いで、かの塔矢アキラがここまで苦戦しているのは初めてかもしれない。相手は伊角慎一郎初段。
(白、下辺のツケはあまりよくない…ように思う。囲いに行く手が早急すぎたんじゃないか?)
 だけどまだ十分に勝算はある。
(右辺が残ってる。広さはある。当然伊角さんも押さえてくるよな…でも、)
 随分と時間を使って、塔矢が白石をぱちりと置いた。調子よく打っていた黒の手がしばし止まり、結果さらに十手ほど重ねたところで白の勝利は確信できた。
「苦戦してたな」
 十分ほどの簡単な検討を終えた塔矢を、エレベーター前で呼び止めた。
「最近ちょい不調か? お前。なんかそんな感じだよな」
「…君は今日は?」
「勝った」
「妥当だな」
 言葉少なに、しかしかなり辛辣なことをさらりと感想する。
「…やっと、だな」
「ああ」
 エレベーターが音を立てて開いた。塔矢は乗り込み、すっと視線を上げて強い声で言った。
「おめでとうを言う気はないよ、当たり前すぎてね。……進藤二段」

 エレベーターが、目の前で閉まった。