運転大好きの塔矢アキラが、最近俺をあんまりドライブに誘わない。理由は、意外にも和谷から判明した。 「伊角さんが。塔矢の車乗ってすっげ楽しかったんだって」 「…『楽しかった』…」 塔矢は運転が巧い。しかし乱暴だ。怖い。あれを楽しいと表現できるのは、おそらく同類だけだろう。 「都内にいたら、免許取る必要感じなかったけど、車があんなに楽しいなら自分も取る、ってさ。すっかりその気だよ」 「…意外」 呟くと、和谷は顔をしかめて、あの人はハンドル握ると人格変わるタイプだとコメントした。 「院生の頃みんなで一回遊園地行ってさ。ジェットコースター何回も乗るんだよ。はじめは怖がってたのに、最後には一人でも乗ってた」 みんなして、伊角さんをゴーカートで遊ばせない連盟を作ったんだよ。それなのに、塔矢め…。和谷は暗い顔で、今にも五寸釘を打ちそうに見えた。 さて塔矢は自分の嗜好について、「血は争えない」 そういうふうに考えているらしい。 「父も若い頃、ね。峠の王者だったらしいよ。母に泣かれて、それ以来一度も運転していないけれど」 あの塔矢先生が。どんなだか想像つかず、研究会の終わり際森下先生に話を振ってみた。すると、顔をこわばらせて口を塞がれた。棋院のタブーらしかった。 「君は免許は取らないの?」 塔矢はしゃあしゃあと尋ねるが、都会の道路は何だか怖い。行きたいところには大抵電車とバスがある。ないところへは、塔矢を駆り出せばいい。運転好きなのだから、需要と供給が合っている。 「お前の車にはもう絶対乗らないっていつも言うくせに」 薄く微笑んで、塔矢は首を傾げる。俺は答えられなくて、適当に誤魔化す。 「最近は伊角さんとよく高速を流すけれど、あの人はすぐ免許を取るだろうから」 すると塔矢も誤魔化すようにそう言い訳する。 「だから、君がつきあってくれないと、困る」 |
世間一般が三連休の後の火曜日、いきなり仕事が入っていた。公民館でのイベントなのだが、素朴なチラシの注意書きには、「公共の交通機関でおいでください」。これって、俺たちも? 打ち合わせのときに念のため確認すると、非常に恐縮して肯定された。 交通の不便な山間の地区なので、途中までは少し文句を言いながら訪れたが、目的地に近づくにつれ納得した。線路脇を走る道は非常に狭い。 「そうか? 僕なら余裕だ。何なら別の日に車で来ようか」 ボックス席の向かい側から、スーツ姿の塔矢が窓の外をひょいと覗いた。俺は手元の冷凍ミカンを弄びながら苦笑した。「そういうチャレンジ精神って、要らないから」 俺からすると背後の席で、伊角さんと和谷が話しているのが聞こえる。 「バイクの方も取ろうかな」 「や、マジ止めて伊角さん。ていうか車も諦めて」 同じ会話を耳にしたらしく、塔矢はくすりと笑った。 「君はああいうふうには言わないね」 それからまた車窓に目をやった。 「ああ、涼しいと思った。川が流れてる」 通り過ぎるというよりは湧き上がるような風が、下の方から俺たちの前髪をふわりと浮かせた。水と草と、濡れた土の匂いがした。 「雨降るかもな。雲が」 「進藤、塔矢、次。駅」 和谷が立ち上がって、網棚から荷物を降ろし始めた。慌てて冷凍ミカンをビニール袋に入れ、下りる準備をした。 イベントは、平日の昼間ということもあり、六十代以上の参加者が100%を占めていた。挨拶のとき、司会の人に、進藤プロは今日十九歳の誕生日で、と紹介されて拍手が上った。少し照れくさくて、何度も浅く頭を下げた。 和谷と伊角さんは、イベントの前半だけの参加だった。雨降らないうちに帰るよ。お先。そう手を振られ、「お祝い何もねぇの?」と拗ねてみた。 「今度モスの匠奢ってやるよ」 「え、嘘、まじ? さんきゅ!」 「おめでとう」 後半は予約制の指導碁だった。塔矢のそれが長引いたので、先に会場を後にした。携帯電話で、「外で待ってる」とメールを入れて、のどかな小道を散歩した。 雲が広がっていた。もうすぐ秋分。夏に比べて夜が早く訪れるようになっていたが、それにしても薄暗い。傾いた太陽が雲の切れ目から拡散した光を投げかけていた。何て言うのだったっけ。天使の階? 違う空には、十五夜を二日過ぎた月が浮かんでいた。 道を曲がると、畦道だった。そこらの草を一枚千切って、草笛を吹いてみようとしたけれど、十年以上昔の記憶でうまく音は出なかった。同じ東京だと思えない。広い視界、他に人がいない。 「進藤」 性懲りもなく、緑の葉を唇に当て震わせていると、背後から塔矢がやってきた。 |
九月十九日。誕生日会という名前の飲み会を和谷たちが開いてくれた。 「最低でも0時超えるまではねばるからなっ。二十日だもんなっ」 「あ、悪い俺九時くらいで上るから」 「あー!?」 なんだ彼女か!? 彼女なのか!? 一気に盛り上がるメンバだったが、伊角さんの「進藤、約束あるから俺送ってってやろうか、車で」の言葉に凍りついた。 「え、伊角さんもう免許取ったの?」 「短期の合宿行ってきたんだ」 言われてみると、本来お酒も飲めるはずの年の人なのに、伊角さんは一人ウーロン茶だった。 「やめとけ進藤。ありゃ塔矢を越えるぞ」 「え。そりゃ凄い」 一瞬好奇心が音を立ててもたげたけれど、若葉マークを理由に丁重辞退した。 「正しい選択だ。ついでにいうと俺なら塔矢の車にも二度と乗らないね」 肩をすくめて「正しい選択だな」とコメントした。ビールは飲めないので、甘いチューハイを舐めた。 「伊角さん、運転楽しい?」 「楽しい。特に高速を流すのが好きだな。生きてるって感じがするよ」 伊角さんはウーロン茶のグラスを片手に、うっとりと遠くを眺めた。「そ、そうなんだ…」 お酒を飲めなくても全然辛そうじゃないというか、どっちに酔っていてどっちが危険なのか分からない匂いがした。和谷が青い顔をして、「伊角さん、真面目な話だけどね!」と安全運転の心得を説き始めた。 そのとき、テーブルの上に出していた携帯電話が、小皿の横で震えた。慌ててお絞りで指を拭うと、それを取り上げる。メール着信は塔矢からだった。 「進藤、彼女かっ!? 彼女なのかっ!?」 「違うよ。これ塔矢から」 しらっとして真実を告げると、みんな揃ってがっかりした顔をした。ディスプレイに目を落とすと、今からだと余裕ある待ち合わせ時間と場所が送られていた。 しばらくしてこっそり店を出た。慣れないアルコールで火照った頬に夜風が気持ちいい。昼間は残暑がきつかったが、日が落ちるとひやりとした空気。 「はっぴばーすでー、俺ー」 気が早い歌を口ずさみながら、ケーキだけは食べてくるんだったと残念に思った。正直、お酒よりはケーキの方が好きだった。塔矢、買ってきてくれないかな、と期待して、すぐに自分で打ち消した。そんなわけはないだろう、多分。ケーキとか花とか、下げてきてもらってもそれはそれで困る。 待ち合わせ場所の駅前、小声で歌っていると、やがて静かに中古の国産普通車が目の前で停車した。 |
「おう、お疲れさん」 指導碁相手に貰った飴玉を手渡してやる。 「…君はどこに行っても何か貰ってるな。歩く地方物産名品展だな」 「電車の時間見た? 半時間はあるぜ」 稲刈りが終わったばかり、まだ黄金色の匂いを残す田んぼ脇に単線の線路が伸びていた。一駅くらい歩いてみようか。いつのまにかそういうことになっていた。 「塔矢運動不足だろ。どこ行くのも車だからさ」 「これくらい、平気だよ」 むっとしたように塔矢は足を速めた。その背中を眺めていると、大分身長差が縮まっていることに気づく。 薄紫色のスーツの背中に、ぼんやり分かる程度肩甲骨が浮かんでいた。塔矢の外見を綺麗だのかっこいいだの思ったことはないけれど、骨は美しかった。 「なあなあ、あれいつだっけ。お前が手ぇ怪我したの」 「…二年前だったかな」 「そうだっけ。骨見えてたよな」 「君怯えて泣いてたね」 「…嘘つくなよ」 塔矢は笑って、もう痕もないよと片手を振った。 次第に景色の明度が落ちていく。街灯もない道なので、歩む速度が増した。塔矢は少し息を切らし始めた。 「やっぱり運動不足」 「うるさいな」 「そんなじゃ番碁きついぜ」 返事はなくて、きっと心の中では走りこみか何かやろうと決意している。手に取るように分かって、おもしろかった。 「お前車使いすぎなんだよ」 「……君は、免許取らないの」 また塔矢はそう聞いた。「必要ないもん。お前が持ってるし。…なんで?」 「十九歳だから」 狭い畦道のすぐ横で、塔矢と肩を並べた。 「十八を過ぎて、できることなんてそれくらいだろう? お酒も煙草も、親の許可の要らない結婚も、全部二十歳からじゃないか」 塔矢はふと足を止めて(疲れただけかもしれない)、生真面目に告白した。 「僕は、囲碁以外でも、君が成長していくのを見ていたい。すぐ横で。リアルタイムで」 普通の表情だった。笑ってもいなくて、怒ってもいなくて。 それから自然に前方へと視線を流し、呟いた。 |
「お疲れ」 助手席に乗り込んで、シートベルトを締めた。他愛無い会話を交わしていると、月の見える部屋がいいね、と塔矢が言った。 「お前リクエスト珍しい。なんで月?」 「今夜は十六夜だよ。昨日が中秋の名月だったんじゃないか」 呆れて答える塔矢は、祝日だけれど今日仕事だった。黒に近い濃紺のスーツを着てハンドルを握っている。疲れているだろうと遠慮したのは俺の方で、誕生日へと日付の変わる夜にこだわったのは塔矢だった。 車でないと行かないような遠いホテルを予約していた。三連休の最終日なので、部屋はどこでも空いていた。ツインでもベッドがダブルのサイズ、というのが売りの一つらしかった。 「ケーキとかねぇよなぁ?」 広い部屋に入り、念のためそう確認してみた。「ケーキ? ないよ。食べたかったの?」 スーツの上着を脱いで、塔矢はハンガーにかけた。 「少し。いいよ別に。酒飲んだから、何か甘いの食べたくなっただけ」 「お酒飲んだら甘いもの? 何か違うような気もするけれど。というか君たち、また未成年だけで居酒屋行ったのか?」 「伊角さんいました。あ、あの人もう免許取ったんだって」 シャワーの順番決めたりとか、そういうやり取りが面倒で、ベッドに寝ころがった。塔矢は特に気分を害したようでもなくて、同じベッドに腰掛けた。 「ああ…早いね」 「お前んときも速攻だったけどなぁ。…なんかさ。高速好きなんだって。生きてるって感じがするんだってさ」 塔矢は、自然な仕草で俺の髪に触れながら笑った。「へえ…」 「…お前、和矢とかに恨まれてんぞ。気をつけろー。伊角さんを禁断の世界に連れ込んだって」 「覚えがないな」 白々しく塔矢はとぼけてみせた。本当に忘れているのかもしれない。少し甘えた気分になって、寝返りを打った。塔矢は慌てて手を引いた。一気に近くなったので、抱きつくと顔を上げさせられた。キスする。 「…俺は、スピード出てる車にいると、どっちかっつーとバーチャルみたいな感じになるけどなぁ。ちょっと道路それたら洒落になんないような速度出てるって実感できなくなる」 「君は免許取らない方がいいな」 塔矢は微笑んだ。「…ケーキかお花か何か、本当は買ってきたかったんだけど」 思わず、「げ」と反応してしまった。「いいよいいよそんなん」 「うん、そう言うと思ったし。花とかね、思いつかなかったんだよね。秋の花って何がある?」 「秋の花ねぇ…。あ、あれは? ええと、赤いやつ。赤くて、こう、花火みたいな立体的な形してるやつ」 塔矢は思い当たったか苦笑して、改めて俺を抱きしめた。 |
色を曖昧にする薄闇のフィルターの中で、土手に群生する花々だけがぱっと赤かった。 「今年の夏は花火見なかったな俺」 連想した事柄をなんと言うこともなく口に出し、塔矢は「僕もだ」と頷いた。また歩き始める。道沿いに、葉のない花が続く。 そうか十八歳の夏に塔矢は花火を見なかったのか、と。その代わり九月に俺と彼岸花を見ている。 そうか、去年の塔矢はまだ車に乗っていなかった。来年はもしかすると俺がハンドルを握っているかもしれない。 一気に暗くなった道を足早に歩いていると、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。塔矢が鞄の中に、ださい折りたたみの傘をいつも入れているのは知っていた。だからそれを言われる前に、空いている方の手を取って走り出した。駅の明かりが見え始めていたから。 同じ男の手の大きさ、熱さ、力、思い出じゃない、覚める夢でも。 雫のまばらな静かな雨だった。無人駅の小さな駅舎で、わずかな汗と雨の匂いを嗅ぎながらキスした。 「俺が免許取ったら、絶対何があっても安全運転だ」 塔矢の湿った髪の毛に指で触れ、肩にかかるそれを掴むように指で絡め取り、もう一度口付ける。 「だから、そしたら、お前もう車乗んな」 声を出して笑われた。「いいよ。みんなには、心配した進藤に泣いて止められましたって、話すよ」 「…どうしてそうお前は俺を泣かせたがるんだ」 電車の光が遠くから届いた。今咲いたばかりのように赤く、花弁は弾けそうに反り返った植物が、線路沿いにも生えているのがよく見えた。 名残惜しくキスをして体を離すと、塔矢が俺の袖を引いて微笑んだ。 「言い忘れていた」 線路を行く車輪の音に紛れようもなく、その声はリアルに耳に届いた。 |
「彼岸花?」 「彼岸花。曼珠沙華とも言うね。綺麗な花だけど…誕生日の贈り物にはふさわしくないかな。毒々しいだろう。名前も色も」 塔矢の手が優しく背中を撫でた。「お彼岸…つまりあの世ってことだよね」 「ふうん」 塔矢の上に折り重なって倒れこんだ。もし、塔矢の手の中にあれば、そんな花だって別にいいけれど、と思った。そして納得した。 「分かった。お前はリアルなんだ」 「…何?」 「ちょい異常なスピード出ててもさ、お前が運転してるからリアルなんだ。他の奴らにはちょっと信じられないようなことしててもさ。お前だから。俺にとってリアルなんだ」 和矢を思い出した。青冷めた本気の表情で、伊角さんに説教していた和谷。 「だ、か、ら。お前、俺乗ってないときでも法定速度守れ。あれ、本当に走ってんだぞ? ちょっと何かあったら洒落にならない。俺に、運転無理だっていうなら、お前に責任持って安全運転してもらわないと、困る」 塔矢は、少しの間本気で不満げな顔をした。囲碁以外ろくに趣味もない塔矢のそんな表情に、ほだされそうになったけれど、そこはぐっと堪えた。 「約束! な! これが十九歳の俺への誕生日プレゼント!」 ついでにちゅっとキスをした。塔矢は体勢を入れ替えて、俺の体に覆いかぶさるとキスし返してきた。 「高くつくぞ。君、十二月は見ていろ」 低くそう囁かれ、一瞬早まったかとも思ってしまった。「…いいよ。それではらはらしないで済むんなら」 「…ご心配ありがとう」 塔矢は、多分照れ隠しで俺の首筋に顔を埋めた。 くすぐったくて暴れて、笑って、やがて俺にとってこれ以上がない微笑みが、そっと祝した。 |