「進藤くん」 いつまでたってもなぜか「くん」呼ばわりの自分だった。成人しても変わらなかった。タイトル獲っても変わらないのではないだろうか。 「はあい」 自分の返事やカジュアルな衣服にも問題があるのだろうけれど、同い年でめっきり「先生」呼ばわりが板についている奴もいるのに。 「アキラ先生との対局日ね、決まったよ」 「嘘。早くねぇ? まだ予選も結構残ってるのに」 まぁ、あいつは子どもの頃からそんなふうにも呼ばれていた。若先生とか。どこの二代目若頭だ…って、塔矢さんちの、だけど。 「どんな日程調整の魔法使ったの?」 「はは、任せておきなさいって。進藤くんと打てるよって言葉くらいアキラ先生に効く呪文はないから」 「何それ」 妙に照れて変な顔になった。 「今日にでも手合通知送れると思うから、ちゃんとメール見てね。前みたいに『見てませんでした』は駄目だよ。今度こそ怒るよ」 「前にも叱られましたぁ」 いつまでたってもパソコン操作に慣れない自分には、葉書の方が良かったけれど、時代はIT化。携帯のメールに登録しなおそうと思っているのに、結局ずるずるフリーメールのままで、棋院からの手合通知も受け取っている。 「進藤くんも、来期こそタイトル狙いたいよね」 「うん、でも先月いっぱい落としたから…碁聖戦くらいはしがみつかなきゃね」 「それにしては相手が厳しいけど」 「まぁね」 本当は、関係ないよと笑いたかった。だけど苦笑しか出なかった。ちょっと弱気だ。 「がんばってよ。本当は特定の棋士を贔屓しちゃいけないんだけどね。応援してるから。今日は何? 仕事?」 「ありがとう。ううん研究会…って言うほどのじゃないけど。森下先生ぎっくり腰だから、ほんとの研究会できなくて、その代わりにみんなで名人戦検討しようかって」 「ああ、ちょうどいいね」 「うん、じゃあまた。教えてくれてありがとう」 エレベーターで対局室へと上がる。すでに何人かは集まっていたが、検討はまだのようだった。敬老の日だ。我らが師匠に何かすべきか、するのも嫌味か。そんな雑談をしていた。 「ちわっす」 「おう」 右肩にかけたディパックを下ろして、一人で碁盤の準備をしはじめた。そうすると、皆も自然と検討の空気になった。今年はいつまでたっても残暑が厳しく、冷房のかかった室内に入っても、じっとりと蒸れた汗を感じた。 「塔矢は…」 「勢いが違うから…」 「最近、顔つきも…」 「獲るかな」 「進藤、どう思う?」 「まだ一局目だよ。分からない。それより内容見ようぜ」 打たれたその日広島で、また先日、当の本人とも散々検討した一局だったが、まだ足りなかった。昼を挟んで、じっくり皆で意見を交し合った。 「ところで進藤さぁ、マホちゃんとその後連絡取った?」 帰り際、ふと思い出したようなさりげなさで、冴木が尋ねた。 「は? 誰?」 とぼけたのではなく、本当に覚えのない名前に首を傾げた。 「ほら、こないだのコンパで進藤の横に座ってた子だよ。結構楽しそうに喋ってたじゃん」 「…ああ…」 あれはやっぱり市ヶ谷パイレーツの打ち上げではなく合コンだったのかと納得した。生返事で記憶を手繰る。赤いサマーニット? 「そんな名前だっけ」 「メルアドとか交換してないの」 「したかな。ああ、パソコンだけ教えたかも。携帯は、ほら、ちょっとね」 昨年、ファンを自称する女子高生に、ストーカーまがいの被害にあったことがある。一部の同性には妬まれたが、正直かなり精神的にきつかった。それ以来携帯電話の連絡先は簡単には教えないようにしている。メディアへの露出が多い塔矢も、また別種の迷惑メール・着信に閉口し、今は携帯電話を持つのを止めている、はずだ。確か。 「あの子達みんなちゃんとした感じだから、大丈夫だと思うけどなぁ。…本当に何もないのか? もったいない」 その子ではなく、もう一人の女の子からはメールが来た。どうせ和谷あたりから漏れそうな気もするので、隠さず告げると途端に冴木は色めいた。 「よかったじゃん」 「よかったのかな…。どうせ、1,2回メールしたらバイバイだよ」 「おまっ…そこから繋げなきゃいけないんだろう!? あのとき話題にした映画見に行きましょう、とか! 今度学祭遊びに行ってもいい? とか!」 「…なるほどね…」 素直に感心して頷いていたら、背中を叩かれ激励された。「がんばれよ!」 本日二度目の苦笑い。「がんばってよ」も「がんばれよ」も、自分にかかる言葉として、ありがたいとは思うのだ。 エレベーターの内や外には、さまざまなポスターが貼ってある。塔矢の顔をいくつも目にする。名人戦第一局、彼らしい碁だった。とても強い、力強い、なりふり構わず勝利をもぎ取る欲の濃い碁だった。 自分にはまだ、それが足りないとたまに言われる。そうかもしれないと思うときもある。タイトル、憧れはするけれど、本当に欲しい、呼ばれたいと思うのは、せいぜい本因坊の銘くらい。そんなものなくても、いい碁が打てればいいと本音のところで思っているのかもしれない。無欲なのかもしれない。無知なのかもしれない。この頭が思う「いい碁」ってやつは、あのブラウン管の向こうの、頂上って場所でしか打てないのかもしれない。 (いいやそんなことはない、やっぱり) 知っているのは、この身がある限り。 「…もっと打ちたい」 「へ?」 「冴木さん、この後暇なら打とうよ」 「いや、暇っつーか、だから俺はこないだのカオリちゃんとだな、」 「打とう」 先月は黒星続きだった。だから今月は対局数が極端に少ない。飢えていた。 打ちたい。 打ちたい。 無欲だなんてとんでもない、千年の亡霊でさえ手を上げたこの情熱が。 (「打てるよ」って言葉以上の呪文なんかない) |