空に落ちゆく

 十数年ぶりに無冠となった。
 かつての弟弟子相手に必死で白の活路を求め、それが盤上のどこにも存在しないと分かったとき、緒方の体を襲ったのは圧倒的な疲労と脱力感だった。
 明治創業だという伝統ある旅館の厚い座布団は、朝からの長い激闘にくたびれ、また無意識に弄ったらしい房には不細工なダマができていた。そんな有り様だとはいえ、しかしその一枚が尻の下に敷かれていなければ、まるで奈落にまで落ちて行きそうな錯覚を覚えるほど、自身の体は重かった。
 投了し、胡坐の姿勢からゆっくりと立ち上がろうとした。立会人として同席していた八段の棋士が、緒方先生大丈夫ですかと手を貸そうとした。
「おいおい、やめてくれよ。まだそんな歳じゃないさ」
 苦笑して断ると、大層恐縮してぺこぺこ頭を下げる。その間に、何とか体を起こし息を吐いた。日本棋院の一般対局室などは全て椅子席となっているが、タイトル戦となるとそうはいかない。膝が痛かった。

 遠征から帰ると、このタイトル戦の間放置していた仕事が緒方を待っていた。来春出版される棋譜集の校正作業だ。自らの名前がタイトルに踊る一冊など、こっ恥ずかしいとこれまで拒否し続けてきたが、ふと、そろそろいいかと思ってしまった。次々と銘を失っていく時期だったので、出版社は出版社で焦っていたのだろう。遅すぎたくらいだ。本当は、緒方が五冠棋士である間に出版したかったに違いない。
 薄暗い部屋の中で、煙草を咥え、印刷された棋譜をぱらぱら捲った。慣れ切って、普段なら無音に聞こえる水槽のポンプ音が、こぽこぽと耳についた。ひらひらと泳ぐ熱帯魚の赤や黄色が視界の隅にちらついた。
 紙上に集められた対局は、どうしても五、六年前のものが多かった。挑戦者として、またタイトルホルダーとして、年間を通してよく打ったし、また良く打った。
 明らかに、日本囲碁界の頂点にいた。
 緒方は、まだ長い煙草の尖端を灰皿に押しつけた。空いた両手で頭髪をぐしゃぐしゃに掴んだ。最後のタイトルを奪われた二日前のあの一局と比較すれば、その打ち回しの好悪はあまりに明白に思えた。盤面が、脳裏に染みついて頭を強く圧迫する。後頭部が重い。肩が重い。背中が、腰が重くて痛い。
「調子の悪い時期だってあるさ」
 ついつい声に出た。スランプ。そう、そういう時期なのだ。
 まだだ。俺はまだ行ける。全盛期の塔矢行洋の年齢には追いついたかもしれないが、たとえば桑原名誉本因坊などを思えば、まだまだこれから盛り返せるはずだ。
 ……そう頭では考えるのだが、どうにも、あの一局の後の脱力感に今もって苛まれている。
 体が、深く、地の底にまで沈んでいくかのような。
 全身にあり得ない重みがかかり、ぺしゃんこに押し潰されるような。
 理不尽で無造作な誰かの手によって、ひょいと虚空へ、投げされるような。




 白川から飲みに誘われた。対局数は激減し、暇だったので軽く了承した。新橋の飲み屋で落ち合った彼は、長年続けている囲碁教室の出張講座の帰りだと話した。順当に昇段を重ね、九の段位を持っているものの、彼は各種タイトル争いに絡んだことがほとんどない。手合い料だけでは稼ぎは乏しく、カルチャースクールの講師や、文化振興の仕事をよく引き受けていた。人当たりが良く説明が分かりやすいという評判は緒方の耳にすら届くので、向いているのだろう。
 つくねを串から外しつつ、白川は「そういえば」と前置きをした。
「娘がそろそろ院生試験を受けようかと」
「……そんな歳だったか? 赤ん坊の頃の記憶しかないが」
 その記憶すらおぼろげだったが、緒方はジョッキのビールをあおり誤魔化した。
「去年中学校に入ってます」
 穏やかに微笑まれ、さすがに衝撃を隠せなかった。「なるほど、俺たちも年を取るはずだ」
 そういえば緒方自身、一時は結婚結婚と周囲がうるさくて仕方なかった、最近はさほどでもない。諦められたのか、違う手を模索しているのか。
「プロになれるかは置いておくとしても、将来の大学進学を迷ってるようで。迷うくらいなら行った方がいいと言っているんですけどね」
「まだ中学に入ったばかりで大学の話か。しっかりした娘さんじゃないか」
 さて何年後だ、と、酒の入った頭で考えた。指折り数え、「五年後か」と呟けば、「四年です」と返ってきた。
「そうか、四年か」
「四年ですね」
 白川はうんうんと頷いた。これから先の時間に、そのような区切りがあるのは分かりやすくていいことだと緒方は思った。プロ試験合格や、タイトル奪取や、それら目標と同じように。
 焼き鳥屋のカウンターの、薄っぺらな座布団が敷かれた木製の椅子の上で、緒方はまた深い脱力感を覚えた。慌てて煙草を吸った。何の解決にも誤魔化しにもならないはずのニコチンが、そのときだけはありがたく感じられた。
「妙に体が重いな」
 飲み食いし、駅前まで来たときやっとそう打ち明けた。白川は笑い、「酒のせいでしょう。何をそんな、年寄りじみたこと」と窘めた。
 まったくだ、と顔を顰め別れたが、改札へ向かう一歩、階段を上る一歩が、その歩みのごとに深みにはまっていくよう感じられた。
 圧倒的な疲労と、果てのない脱力感。
 まるで体が、深く、地の底にまで沈んでいくかのような。
 全身にあり得ない重みがかかり、ぺしゃんこに押し潰されるような。
 理不尽で無造作な誰かの手によって、ひょいと虚空へ、投げされるような。

 —————ここから先、落ちるしかない。

 何もない。

 乗れそびれた電車が、目の前で勢いよく発車して遠ざかった。




「あれ。緒方先生」
 次の電車が最終だった。今度こそ注意深く乗り込んだところ、反対側の扉口付近に進藤ヒカルが立っていた。
「なんかびっくり。緒方先生も電車に乗るんだ」
「飲んでいたからな」
「そっか。飲んだら車乗れないもんね」
 白川と一緒に飲んでいたことを告げれば、「ずるい」と責められた。「俺も呼んでよ」
「お前は本当に昔から礼儀や遠慮というものを知らないな」
「そんなことないよ」
「あるだろう」
「昔はもっと遠慮してたし怖がってたよ。だってガキの頃の俺から見たら、緒方先生なんてもう全然オッサンでさぁ」
 礼儀のかけらもない発言に、緒方はむっとした。
「おい。その頃は俺もまだ若手だったぞ」
「もっとずっと大人だと思ってたのに、気がつけば俺も結構いい歳だしあんまりあの頃の緒方先生のこと言えない」
 この時間でも座席は大方埋まっていたので、緒方は吊革を掴んだ。進藤ヒカルは扉口に体を預け、そのポジションを譲るという発想はないようだった。
「お前まだ若いだろう。いくつだ?」
 緒方はそう口にし、すぐに自分で、その問いの答えまでを呟いた。「アキラくんと同い年だったな」
「ううん」
「違ったか? ………いや、やっぱり同い年だろう」
「今日から三ヶ月は俺のがひとつ年上」
 進藤ヒカルは、スマートフォンの画面を目の前に突き出した。いくつかの噴き出しや、賑やかなイラストが見えた。その中に読みとれた言葉は、「誕生日おめでとう」「はっぴば」などなど。
「最近のメール画面はそんななのか」
「これはLINEです」
 進藤ヒカルは真面目くさって答え、噴き出した。
「緒方先生も祝ってください。電車で乗り合わせるとか普通ないし」
「その歳になって、まだめでたいとかあるのか?」
「え、めでたいじゃん。なんで? あ、じゃあ緒方先生の誕生日も俺お祝いするよ。いつか知らないし教えてもらっても多分覚えないけど」
 どうやら進藤ヒカルも酔っているらしかった。誕生日なので、パーティーでもやっていたのか。そう話を向ければ、
「ううん、一人で飲んでた。だから誘ってくれたらよかったのに。白川先生、そういえば最近あんまり会ってない」
 とのことだった。
「じゃあ今から飲み直しに行くか」 哀れさゆえ、緒方はそうぽろりと言ってしまった。さすがに断るだろうと思った進藤ヒカルは、ぱっと顔を輝かせた。
「え、いいの?」
 若くもないのに、オールが決定した瞬間だった。




 タクシーに七千円ほど払えば帰宅できないこともなかったけれど、翌日の予定も特になく、朝五時まで開いている居酒屋に、始発の時間まで居座るつもりで入店した。
 二人したたかに酔っ払い、クダを巻いた。お互い、言うほど酒に強いわけではなかった。
「saiと打ちたかった」
 進藤ヒカルと飲むのは初めてではない。わずかな機会のごとに繰り返す文句を、その日も緒方は垂れ流した。
「あのとき打ちたかった。棋力は未熟でも、あのときの自分が打ちたかった」
「今は?」
「今は、勝てる気がしない」
「あのときは?」
「勝てるかはともかく、負ける気もなかった」
「打ちたい人はみんな先に行っちゃうものなんだ」
 進藤ヒカルは、度数だけは高い安酒を、くいくいと飲んだ。
「みんな勝ち逃げだよ。ずるいよね。でも緒方先生、俺一回だけ、塔矢先生に勝ったことあるんだ」
「嘘つけ」
「本当。塔矢に、あいつんちに呼び出されてさ、行ってみたら、一時帰国してた先生がいて、一局打ってくれないかって言われて打ったよ。朝九時頃から打ち始めて、終わったのは夕方だった。塔矢の母さんがご飯用意してくれてたけど、俺、なんか自分でもよく分からないくらいめちゃくちゃ拒否って、お邪魔しましたさようなら、って外に飛び出した。丁度車が道路を走ってて、ほんとやばい、すれすれで引かれそうになって、びっくりして尻もちついて、その打撲と両手の擦り傷だけで済んだの嘘みたいだった。運転手の人が俺以上に焦って車から下りてきたけど、騒ぎになったら塔矢たちに気付かれるって思って、そうしたらバレる、俺が塔矢先生に勝ったことがバレるって、とにかくそのときの俺はそれだけが一番怖くて、大丈夫です全然大丈夫、怪我ないし当たってないしピンピンしてますって必死で説明して、また走って駅まで逃げたよ。別に誰に追いかけられるわけでもないのに怖くて、改札くぐってホームまで来て、やっとどっと、力が抜けて周りが見えたんだ」
 いかにも酔っ払い然と、おかしな抑揚でつらつら言葉を連ねていた進藤ヒカルは、そこで酒に湿った口元をぐいと拭い、顔を上げた。
「世界の終わりみたいな夕焼けが広がってて、俺は泣いたよ」
 手が届いてしまったことに。
「ひょいって、踏み抜いちゃったんだよね。全然、全然、ずっと先のゴールだと思ってたのに、着いちゃえば怖くなった。どっと疲れたし、もう動けないとまで思った。線があるからそこまでがむしゃらに走って来れた。テープを切って、じゃあ次はどこに行けばいいんだろう、って」
 卓上に乗せていた進藤ヒカルのスマートフォンが震えた。軽く視線をやり、進藤ヒカルは指先を画面に滑らせた。
「誕生日も、それ一緒でさぁ……。びっくりするよね。今ここにいるってことが、時々信じられない。小学六年生の俺が見せられてる夢だって、そう言われたら、そっちの方がちょっと信じちゃうかも」
「……俺は最近、自分の体が投げ出されてどこかに落ちていく夢ばかり見るよ」
「緒方先生見かけによらず繊細だから」
 弱みを見せてやったというのに、進藤ヒカルは失礼にもそう笑った。そしてまたスマートフォンを差し出した。画面には、これは緒方にも馴染のあるレイアウトで受信メールが開かれており、差出人には「とーや」とあった。
「漢字くらい登録してやれ」
「今更めんどっちいじゃん。つか、俺とあいつがメアド交換してるとか、それもまた不思議。びっくりする」
「……そうだな」
 見せるからには読めということだろう。アキラからのメール本文は唐突に始まっていた。
『なるほど誕生日か。一応おめでとうと言っておこうか。ところで先日の検討で意見の分かれた黒二十三手目についてだが——』
「おめでとうって言ってなくねっ? これ!」
「そうだな」
「塔矢先生に勝った日の夜にもさ、こんな調子でメール来たわけ。『進藤、なぜ母のちらし寿司を食べて行かなかった。まぁいい。ところで昨日の検討で君が拘っていた白三十六手目についてだが——』みたいな感じで」
「口調と表情まで浮かぶな」
「腕組みして仁王立ちしてるとこまでね」
 そこでなぜか二人して笑えた。テーブルを叩く勢いで笑った。まさかこんなところで自分のメールを笑い物にされているとは思っていないだろう塔矢アキラが、少し哀れで、少し愛しかった。
「ねぇ先生、俺たちが落ちてるとしたらどこへだと思う?」
 散々笑い、散々泣いて、ついでに少しトイレで吐いて、白んだ空の淡さすら眩しがりながら、二人の酔っ払いは店を出た。
「きっと俺たち、空の上の方へずっとずっと、落ちてってるんだ」

 いっぱいいっぱい勝ち逃げして、あなたを蹴り落としたり、俺を追ってる奴らをみんな、悔しさで真っ赤にさせてやろう。
 そしていつか落ち切った場所で、会いたかった人たちが待ってるんだ。
 そのためなら、白々しい二日酔いの朝の空にだって、血みたいに不吉な夕焼けの空にだって、腹括って落ちて行ってやるって俺は思える。
 怖くても。
 怖くても。




 始発電車に揺られながら、緒方は何度も欠伸をした。その度に眼鏡を外し、シャツの裾でレンズを拭った。
 帰宅したらとりあえず寝よう。目が覚めたら風呂に入り、進藤ヒカルに教わったSNSについて白川にも知っているか尋ねよう。知らなかったら教えて、自分がそうされたようにアカウントを作らせる。なぜなら子供の名前を聞くのだ。年賀状を見れば分かるかもしれないが、面倒なので住所も。
 一年遅れの進学祝いを贈るために。