虹を吐く男

 進藤が虹を吐くようになった。
 塔矢の家でのごく私的な対局後のことだった。相手の「ありません」の声を聞き、ほぅ、と息をついた。そのとき唇から虹が零れた。碁盤を見ていた塔矢の視界の隅で、小さな透明な七色が数秒間撓み、すぐに消えた。
 進藤と塔矢は顔を見合わせ、互いを真似るように瞬きした。
「何だ、今の」
「何って」
 塔矢の指が伸びた。男らしいが細い、そして些か生白い指の腹が、進藤の唇の手前で振られた。
「何か出たぞ」
 先ほどまで白石を挟んでいた硬い指先からは、古臭い家屋と雨の匂いがした。進藤は、吸いこんでしまったその空気をすぐに吐き出した。と、また、パステルカラーの光の橋が現れた。
「虹が出てる」
「…………わーお」
 一呼吸ごとに出現するわけではなく、時折。進藤の口元に、小さな可愛らしい虹が現れては消えた。二人はしばらくその不可解な現象を眺めていたが、そのうち妙にしみじみと、進藤が頷いた。
「碁石じゃなくて良かったなぁ。あんなの吐いたらめちゃくちゃ喉に詰まりそう」
 塔矢が眉を寄せ反論した。まともに考えたというより、進藤の言うことにはとりあえず逆説を繋いでおけ、という習慣だった。
「おい、碁石いいじゃないか。いくつなくしても安心だ」
「なくすなよ」
「そう易々とはなくさないが、いつの間にか消えるものだろう、あれは」
「そうだけど……」
 また会話が途切れた。先ほどより少しばかり大きくなった虹が、塔矢家の古く整った畳の目の上に浮かんで消えた。
「このまま吐き続けたらどうする?」
「ないよ」
 塔矢の脅し文句に、進藤はきっぱりと言い切った。「不思議なことには終わりがあるよ」
「なぜそう断言できる。もし終わらなかったらどうするんだ」
「どうって」
 小さく首を傾げ、進藤はわずかに笑った。「そりゃ、素敵な世界だな」





 その夜塔矢は夢を見た。
 進藤を泊まらせている六畳間から虹の光が漏れて溢れ、明るすぎて目を覚ます夢だった。
「進藤、睡眠妨害だ」
 襖をすぱんと開くと、色違いのパジャマを着た進藤が、両手で口元を押さえていた。指の隙間から、ぽろぽろと新しい虹が吐き出され止まらない。
「ほら。だから言ったんだ。もし終わらなかったら、って」
 塔矢はなぜか自慢げに胸を張った。
(ああ、これは素敵な世界だ)
 進藤は答えたが、その喉や舌は光に縺れ、その声は音にならない。音の代わりの何かが、塔矢の耳で意味を奏でた。
(きっとこの虹を渡れば、あいつのところに行けるんだろうか)
(今年こそ)
(今年こそかなえるのか)
「馬鹿な」
 塔矢は一笑に付し、この家で一番風通しのいい和室に足を踏み入れた。裸足で畳の縁を踏んでも頓着しない。
「君の体重でそんな薄っぺらい虹を渡れるものか」
 充満する七色の光。それがどうした。今更だ。光と名のつくものを、自分たちはもう25年や26年、とにかくずっと背負ってきたのだ。
「ましてや君、その誰かのところへは、碁盤と碁石を担いで行くんだろう?」
 ——それがどれほどの重みかなんて!




 そこで塔矢は本当に目を覚ました。家の中は暗かった。時計を見れば日付が変わっていた。終わらない現実は区切りなど知らず続いて行く。塔矢はそっと布団を抜け出し、客の泊まる六畳間へと足を運んだ。
 襖を開く。薄手のタオルケットもかけず、(柔らかな隆起を見せる)腹すら出して、進藤は大の字になって眠っていた。塔矢は畳の縁を踏んでその寝姿に近づいた。
 寝息と共に、時折、小さな小さな虹のかけらがその唇から零れていた。
 不思議なこともあるものだ。塔矢は改めてそんな感想を抱き、生まれたばかりの虹に顔を近づけた。すると、息を吸うタイミングで、それが口の中に飛び込んできた。思わず飲み込んだ。何の味もしなければ、何かが喉を通る感覚もなかった。ただ空気のようにそれは塔矢の一部になった。面白くなり、進藤が虹を吐くたびに飲み込んだ。やがて、ぼんやりと意識を取り戻した進藤が、眠たげに目を擦った。
「何してんのお前」
「君の虹を全部吸い取ってやろうと思って」
「今度はお前が虹を吐き出すことになるかも」
「君よりは、みんな多少納得してくれそうな気がするじゃないか。なるほど塔矢アキラだしな、って」
「するかよ。どんだけ電波だよ。ありえねぇ」
 呆れた進藤が欠伸をした。大きく息を吐き出した。そのとき、これまでで一番立派な虹が出た。
「あ」
 塔矢は咄嗟に顔を寄せた。光のアーチが二人の唇を繋ぎ、それが短くなるのを追いかけるうち、ごくごく自然にキスをしていた。
 重ねた唇の隙間から、わずかなスペクトル。輝きはすぐに消えた。塔矢が顔を離すと、ぽかんとした進藤の間抜け面があった。しばらく無言で見つめ合っていると、進藤が片手で口元を押さえた。
「……消えた」
「消えたね」
 塔矢は慎重に、宙へと息を吐き出した。寝苦しい、厳しい暑さの残る夜、息は白くもならず、また何の色も帯びなかった。今二人の間にあるのは、美しい大気光学現象ではなく、気まずい空気のみだった。
「光害になる前に消えて良かったじゃないか」
「……そうだけど」
「君の言う通りだ。不思議現象には終わりがある。じゃあお休み」
「お、おお……」
 そもそもこんな夜中になぜ来たのかとか、進藤は話題に触れることを避けて頷いた。塔矢は立ち上がり部屋を出た。
「忘れてた」
 そして閉めたばかりの襖をまた開き、慌てて起き上がる進藤へ告げた。
「12時超えてる。誕生日おめでとう」
 返事も聞かずまた襖で視界を塞いだ。祝いの言葉だがろくに感情も籠っていなかった。しかし塔矢は充分だと思った。大体、自分の口から出る何かに、彼の唇が作り出す何かに、誰が幾許の美しさを期待するだろう。元からあるものなら名前だけで充分。言葉遊びだ。
 そして盤上に作り出すものは指先からで充分。
 その光の架け橋が繋げている。不思議が終わらない世界にも、もう会えない人が待つ彼岸にも。
 もしかしたら、二人が恋に落ちるかもしれない、また一年後の未来にも。