和谷くんが、ちょっと怒って携帯電話に向かって怒鳴っています。 「ああっ!? 来れないって、なんで?」 その声に、囲碁サロンのあちこちから視線が集まりました。それもそうです。碁会所は、輪っかにした紙テープのリボンで飾りつけられ、机の上にはケータリングの料理とケーキ。つまりどこからどう見てもお誕生日会仕様なんですから。 そこで祝われるべき当の本人が、ドタキャンとか。 「……ああ、そりゃ俺も見た。見たよ。強かったよな、ムカつくよな。いやでもお前……そりゃ勉強大事だけどさ、誕生日の夜2,3時間くらいいいだろ……みんな待ってんのに。前からの約束だろ」 和谷くん、怒っていたのが、当惑と苛立ちに変わっていっています。ほんの少し、仕方ない、みたいな雰囲気が生まれ始めました。和谷くんや伊角さん、越智くん、本田さんたち、プロの人の輪の中で。 「ちょっ、和谷、何押されてるの!」 脇から奈瀬さんが、和谷の肩を小突きました。 「進藤のやつ、最近不調だからなぁ……」 横で様子を窺っていた冴木さんは、苦笑しました。 「先週の塔矢の名人戦観戦したの、メンタル的にちょっとキツかったみたいだな」 そうは言うけれど、その塔矢くんだっているのです。観葉植物の葉の影でひとり、棋譜を並べています。 「ちょっと貸して、和谷」 ついに奈瀬さんは携帯電話を奪い取りました。 「進藤! いいから顔出してよ。今年は、いつもみたいに誰かの誕生日にかこつけた飲み会とかじゃないんだから。プロデビュー十周年を祝って、ちょっと特別にサプライズとか用意して……」 先月の和谷くんのお誕生日には、四年つきあってきた恋人からの逆プロポーズをみんなで演出したということです。成功してよかったですね。 「……え、言えないよ、サプライズなんだから」 奈瀬さんが顔をしかめました。どうやら戦況は芳しくないようです。おかしなことに、場の空気はぱっきり二つに分かれていました。 もう半分諦めかけているのは、プロ棋士の人たち。 どうしても諦めきれない、それ以外の人たち。 奈瀬さんはセミプロなので、どちらかといえば後者でした。プロではない私たちは、そもそも普段、彼と顔を合わせる機会が少ないので、やっぱり今日会えないのは、残念です。 立ち上がって、奈瀬さんに近づきました。 「すみません、代わってもらっていいですか?」 そっと手を差し出すと、奈瀬さんは少し迷ってから、溜息をついて、電話の向こうに「ちょっと代わるね」と告げました。せっかくのサプライズの一人だったのに、ネタバレしちゃってすみません。 「ヒカル、久しぶり。分かるかな、あかりです」 息を飲むのが分かりました。途端に声が大きくなって、え、なんで? とか。きっと、目を丸くしているのでしょう。 「私だけじゃないよ。筒井さんも、三谷くんも、岸本さんもいるの」 一人ひとり名前をばらすと、驚きすぎたのか、黙り込んでしまいました。 「私は大学のサークルで奈瀬さんに会ったんだよ。いくつかの大学の合同サークルでね、奈瀬さんは、ええと、名誉会員? オブサーバーみたいな活動をしてくれてて」 女子が少ない中、私たちは徐々にお友達になりました。 「それで、奈瀬さんに連れて行ってもらったアマの大会で、岸本くんに会ったの」 あれ、あの人なんか見たことある。決勝戦の白番を持っていた彼を見て、そう奈瀬さんは首を傾げたのでした。大会が終わってから、奈瀬さんの記憶を確かめに声をかけに行って、すると次にびっくりするのは私の番でした。 彼の横には三谷くんがいたのです。 「それで、岸本くん経由で三谷くんにも再会して。ヒカル、結局三谷くんと仲直りしてないままだよね?」 思い出すのは十年前。 ……十年ですって! その数字を思うと本当に驚いてしまいます。 中三の秋、手合いに復帰したヒカルのために、私や久美子は、彼の誕生日をお祝いする寄せ書きを作っていました。 これをきっかけに仲直りをしてほしいと、三谷くんにもお願いしたのだけど、当然断られました。それでも、しつこくない程度に何度か声をかけていると、最後には折れてくれました。 どうすりゃいいの、と聞かれ、慌てました。ダメモトで教室に来たものだから、一番大事な色紙をそのとき持っていなかったのです。 放課後に、お願い。そう手を合わせました。運動場の横の、銀杏並木のあたりで待ってるから。 そうして三谷くんが書いてくれたのは、「中卒野郎」という、到底お祝いの言葉には見えない四文字でしたが。 暗に、プロの道を歩き出したヒカルへのエールだと、私は勝手に解釈していたのです。 「いい加減、あのときのこと、もう一回謝ってみたら? もう二十五歳で、四捨五入すれば三十になるくらいの大人だし」 院生試験を受けるために囲碁部をやめる。それは別に全然悪いことではないけれど、でもやっぱり、三谷くんから見たら、とっても自分勝手だったと思います。 「それから、筒井さんは全然別のルート。越智くんのお祖父さんの会社で働いてるんだって」 履歴書の趣味の欄が、採用試験で力を発揮したのかは分かりません。だけど少なくともその共通点で、就職してから越智くんと親しくなったということです。 「あとね、来たら電話を繋げてもらうつもりだったんだけど、大阪の社くん、今日は加賀さんと飲んでるって」 関西の大学に進学した加賀さんが、将棋・囲碁のイベントで社くんと出会ったのです。 名前を挙げていけばなんだかすごい。十年、という歳月と同じくらいにすごくないですか、こういうのって。 「すごいよね。奈瀬さんは、偶然っていうより、碁界が狭いんだって言うんだけど。でも、それがすごいよね、私たちずっと囲碁を続けてたんだよ」 プロの人たちにとっては、ヒカルにとっては、当たり前のことかもしれません。だけどそうでしょうか? 「それで、少なくとも私は、碁を始めたのも、続けてきたのも、まぁ、ヒカルのせいだよね」 少し恥ずかしかったので、わざとそんな言い方をしてしまいました。 「ヒカルがいたから、碁を打ってきたから、今ここにいるみんなが集まってるんだよ」 囲碁の勉強、大切です。特にヒカルたちは、それでお金を貰っているのだし、それに人生を賭けているのだし。 それはよく分かるけれど、やっぱりせっかくだから今日は会いたい。 「打ちたいなら、ここにいっぱい碁盤も碁石もあるよ。打つ相手もたくさんいるよ。私は相変わらずヘボだけど」 だから、よかったらおいでよ。 そう言い終えて、和谷くんに返そうとした携帯電話を、上からすっと取り上げる手がありました。 塔矢くんでした。 彼は静かに言いました。 「進藤来い、僕らはここにいる」 それから通話を切って、電話を和谷くんに返却しました。なんだかいいところを持っていかれてしまったような気がします。仕方ありません。 「……来るかな」 一人ごちると、 「来るよ。主役が来なきゃ、お話が始まらないもの」 奈瀬さんがふてくされて言いました。ああ本当に。 十年間。みんながそれぞれの道を歩いてきました。一人ひとり、ドラマチックじゃなくても、そこでは自分が主人公で。 だけど誕生日。九月二十日。今日だけは、私たちみんなあなたのための脇役なのです。そのために集まったんです。誰かに導かれたような偶然? いいえ私たち自身の意思で。 自動ドアを見やりました。第一声は決まってました。音を立てて開く、ドアが閉まる前に言ってやるのです。大きな声で。 「お誕生日、おめでとう!」 |