虎に翼

「そういや今日は9月20日なわけだが」
 二人並んで、棋院の玄関先で取材写真を撮られていた。営業スマイルや真面目な顔、リクエストに応じ百面相をしていると、進藤が唐突にそう言った。数秒間、その日付の意味を考えて押し黙った。そしてやっと思い至る。
「……ああ。誕生日おめでとう」
「めでたいだろう。もっと称えろよ」
「非常におめでたいね。君の頭くらい」
「それ祝ってるか?」
 スーツ姿でじろりと睨まれた。カメラマンの横で苦笑した記者が、場を和ませるためか、撮影を中断して雑談を仕掛けた。
「24歳でしたっけ。ああ、進藤さん年男ですか。ええと、何年?」
「寅です、がおー」
「じゃあ塔矢先生や社さんも」
「そうそう。社が阪神ファンなのも塔矢が虎縞ネクタイ愛用なのも、だからなんです」
「つまらない冗談はよせ。社が聞いたら本気で怒るぞ」
「野球の話は逆鱗だもんなぁ」
 そのスポーツに、単なる趣味以上の情熱を燃やす友人の奇態を思い出したか、進藤は小さく笑った。
「こちらとしては、塔矢先生が辰年とかだと丁度よかったんですけどねぇ、煽り文句として」
「何?」
「『竜虎激突』、とか」
「竜虎ねぇ…。どっちがどっちよ」
「だから君が虎だろう、ビジュアル的にも」
「えー…なんか竜のが強そうじゃねぇ?」
「並び立つからこその熟語だろう、何を言ってる」
「たとえば何とか?」
「…中日と阪神?」
「お前も野球なんじゃん」
「上杉輝虎と武田晴信」
「あー、誰だっけ」
 あまりの衝撃に馬鹿にすることも忘れ、沈黙してしてしまった。上杉謙信と武田信玄、と言えばよかったのかもしれない。言いづらそうに記者が口を挟んだ。
「すみません先生方、撮影の続きをいいですか? 空模様が怪しそうですし」
「ああ、そうですねすみません。雨が降る前に終わらせちゃいましょう」
「……というより、進藤の馬鹿がこれ以上露見する前に、ですね」
 呆れたため息と共に漏らすと、軽く足を踏まれそうになって慌てて避けた。汚れた靴で週刊碁の紙面は飾れない。子供っぽいむくれ方にこちらも些か機嫌を損ね、お互い自然と仏頂面になった。幸いというか何というか、そこから先は表情などに指定はなかった。笑えと言われても、あまりいい笑顔はできそうにもない。
「では、このあたりで。お二人ともありがとうございました」
 終了の合図が飛び、腕時計の時間を確認した。肩と鼻先に、小さな雨滴を感じたのも同時だった。
「ありがとうございました。お疲れ様です」
「お疲れ様っすー!」
 進藤は早速ネクタイを外し、人差し指に巻きつけて遊び始めている。撮影の間は無口だったカメラマンが、濡らさないよう機材を片づけながら言う。
「塔矢先生、囲碁で竜虎といえば、秀甫と秀……」
 雨音と共に、滴がアスファルトの色を塗り替える間隔が急に狭くなった。大慌てで手を早める彼の邪魔をしないよう、簡単に挨拶と一礼を送った。
「進藤、君も行くぞ」
「うえー」
 肩を押して棋院の中に促した。進藤は嫌そうに舌を出し悪態をついた。
「なんだよ。あの人の話まだ途中だったのに」
 宥めるための餌が何かないものか鞄を探ると、いつのものかも忘れた棒付きのキャンディが見つかった。カラフルな包み紙のまん丸な飴だ。
「これをやるから君はもう少し言動を慎め。言えば言うほどボロが出てるじゃないか」
「ボロって。ひでーな。てかチュッパチャプスくらいでそんな偉そうにされる義理ねーから」
 言いつつも受け取り、進藤は張り付いた包み紙を苦労して剥した。口の中に入れて、何が楽しいのかぐりぐりと棒を回転させて遊ぶ。
「もう帰る? 雨ひでーのな」
「通り雨だろう。しばらく待てば止むよ」
 何の根拠があったわけでもないが、進藤は天気予報をかさに反論することをしなかった。


 敬老の日のイベントのために上の階は賑わっているようだった。反対に階段は薄暗く人気がない。踊り場に腰を下ろすでもなく、進藤は屈みこみ(社に言わせれば、いわゆるひとつのヤンキー座りというやつだ)、棒つきキャンディを舐めている。舌で飴を舐めるたび、銜え込んだ棒はおかしな角度に回転していた。手すりに凭れかかり腕を組みながら、それを見下ろした。
「寅年っていえばさぁ」
 もごもごと飴を舐めながらの、危うい発音だった。
「なんだ」
「お前と会ったのも寅年じゃん」
 今度はまた別の衝撃のために言葉が出てこなかった。さらさらと流れる雨音をたっぷりと聞いて、それからようやく頷いた。
「ああ、そうか。一回りか」
「あーあ。早ぇなぁ。いつのまにか兎にも羊にも追い抜かされちゃって」
 膝の上に投げ出していた手で、進藤は一度棒を掴み飴を口の中から出した。少しだけ舌もついてきて見えた。コーラ味らしい濃い茶色は、舐められて、一回り小さくなっていた。
「どこがだ。君ほど早くこの12年を駆け抜けてきた棋士も珍しい。12年前は打ち方すら知らなかったんだろう?」
 今度はこちらから足を踏んでやろうか、体勢的に難しいので頭をはたいてやろうか、それともいっそ蹴ってやろうか、ぽてっと転がるに違いない。そんな逡巡をしている間に進藤は何ということもなく立ち上がってしまった。尻ポケットに入れたネクタイの端が、不作法に顔を出していた。
「まあな。確かにみっちみちに中身が詰まった10年ちょいだよなぁ」
 唇に押しつける丸い飴玉は濡れていた。それに誘われたわけでもないけれど手首を掴むと、ぎょっとした顔がこちらを向いた。
 軽く触れ合わすだけのキスをした。すぐに離すと怒りか照れか、面白いように真っ赤になるその顔を眺めた。珍しく奇襲成功。こういうのもトラトラトラと言うべきか、不謹慎か。
「な、な、な…」
「ちょっとカッとなってやった。反省はしていない」
「嫌がらせかよ!」
「雨、止んだんじゃないかな。君さっさと帰れば?」
 先に歩き出すが、ついてくる気配がないので振り返った。
「進藤?」
 むくれた表情、不機嫌な顔、片手には舐めかけの飴を手に、進藤は歩き出すと肩にぶつかってきた。
「しん、」
「がおー」
 追い抜きざまに一声吠えて、唇を掠める甘い香り。コーラ味。










『俺は進藤ヒカル、6年生だ』





 ちょっとカッとなって12年。

 互いの背中だけを追って無我夢中で、追い抜いたはずのウサギもカメも、さっぱり記憶にないのがおかしい。
 空を駆ける架空の生物に自分を喩えるほどの驕りはないが、それを追うまだらの獣は確かに彼によく似ている。
 翼を与えればきっとどこまでも飛んでいく。そんなところが。