遠雷

 週刊碁の定期購読をストップした。ほとんど読まずに、最近溜まる一方だったから。
 短大に入学し、それまで人に見せてもらうだけだったその新聞の購読を始め、一番熱心に読んでいたのはその頃だろう。目当ての名前が載っていなくとも、少しでも碁界のことを知ろうと、そしてまたそれが楽しかった。
 二十歳の春に就職し環境が変わった。学生時代はどんなに疎遠になっても、年一回学祭のときに囲碁部の催し物に来てもらっていたけれど、それもなくなった。習い続けている囲碁教室にも、月に一回行ければいい程度。
(藤崎さん、進藤とは家が近いんでしょう?)
 そのはずだけれど、もう一年近く、会っていない。


 通勤途中の駅のキオスク、ラックに丸まった週刊碁の小見出しにその名前があった。棋聖リーグに出場中なのだ。手を伸ばしかけて止めた。電車が近付いていたからだった。ローヒールのパンプスで足早に改札を抜ける。朝晩は大分と肌寒いが、家からダッシュしてきたものだから脇にじんわり汗をかいていた。電車に乗り込む。通勤ラッシュの時間だが、この路線の混雑具合は殺人的とは到底言えない人口密度だ。それでも隣の高校生との距離は近く、携帯電話のディスプレイを見えない角度に調整してウェブに繋いだ。お気に入りに入れているソーシャルネットワークシステムのホームページへは、ボタンを5回ほど押せば辿り着く。通勤時間にチェックするのは何となくの習慣だった。
 随分前に会ったとき、ヒカルも同じSNSに入っていると聞いて、お互いに友人登録をした。だから近況くらいなら知れるのだ。最もヒカルは、本当にどうでもいい生活の断片くらいしか日記に書かないけれど。
 応援コミュニティなんてものも存在していて、当然のように自分も入っていた。棋戦やイベントの予定、勝敗などはそちらで知れる。リーグ出場が決まったときはお祭りのようだった。たまにヒカル本人も書き込みをする。オフ会もあった。そんな盛り上がりがあるほどに、まるで芸能人のような扱いに戸惑った。
 小さなため息が漏れていた。ヒカルの相変わらずの三行日記に、他愛もないコメントを残す。たまに棋戦のことも書かれるけれど、そちら方面の日記には、場違いのようでコメントができない。
 自分の日記は、数回に一度読みに来てくれているようだった。足跡でそれと知るだけだ。3年間違うクラスだった中学生のときより、もしかすると近い距離なのかもしれない。しかし心情的にはこれほど遠いこともない。携帯の中の文字だけでは姿が見えない。新聞記事の写真や、テレビ映像などではさらに見えない。
 随分と遠い世界に行ってしまった。向こう岸に渡ったら何があるのだろう。日々、小さな会社の受付に座る自分には、想像もつかなかった。
 携帯電話を弄っていると、手の中で震えた。メールの着信だった。ウェブを切り、新着メールを受信する。SNSのコミュニティ「棋士☆進藤ヒカルを応援しよう」のオフ会で出会った、同い年の友人からだった。囲碁というマイナーな趣味の割に、そのコミュニティは比較的若者が多い。最初のオフ会ではそれが嬉しくて、少しはしゃぎすぎてしまったのだ。
 メールは食事の誘いだった。断る理由も特にないが、二人というのが気になった。他のメンバーにも声をかけることを、さりげなくしかしはっきりと、顔文字つきで返信しておいた。
 電車が目的の駅に着き、人をすり抜け降りる。乗車してくる人々と肩が触れ合う。発車を合図する放送、学生たちのはしゃぎ声。街中からは選挙カーの放送と遠くからパトカーのサイレン。もう一度携帯電話を、今度は時間を確認するために見た。始業時間まであまり余裕はなくて、駅の階段を二段飛ばしに急いだ。

 その日の仕事を終え、立ち寄った駅ビルで軽くウィンドウショッピング。そうすると、自宅最寄駅に降り立つ頃には日が落ちていた。秋分の日が近く、昼夜はほぼ同じ距離を競うのだ。
 仕事の間に、友人からはまたメールが入っていた。友人だと自分は思っているけれど、相手はそう思いたくないようで、それが分かるメールに戸惑っていた。
 駅から自宅へゆっくりと道を歩く。右折すると、小学生の頃何度も無邪気に訪れた彼の家が見えた。ほとんど条件反射のように二階の窓を見上げた。電気がついているとそこにいると分かるし、消えているともしかして、今にもこの場に帰ってくるかもしれないと思う。その日はついていた。いるのだろう。碁の勉強をしているのだろう。携帯電話を握りしめ、しばし立ち止まった。そこでその人が頑張っているということで、自分も頑張ろうと以前は思えた。どこかで彼が碁を打つ限り、自分も打ち続けようと思った。レベルが違うとか、世界が違うとか、そうじゃない。子どもの習い事、中学の部活動、そしてプロの世界。そうじゃなくって。ただ。

 ただ少し疲れてしまった。

 歩き出す。今朝見てきた天気予報を思い出し、雨が降るかもしれないと思ったのだ。雲が空を横切るスピードが速い。
(囲碁……止めようかなぁ…)
 不意にそう思った。おかしかった。誰も止めないだろう。そもそもすでに止めているようなものだ。囲碁教室を最後に訪れたのはいつだったか。先生にせっかく誘ってもらったのに、都の初心者向け大会にエントリーすることも断ってしまった。十七の誕生日、両親にねだった脚のない碁盤と碁石のセットも、埃をかぶっているかもしれない。当時大分と呆れられてしまったプレゼントだ。高い鞄も服もメイク用品も、要らなくて。
(止めようかなぁ……)
 小学生の頃からずっと、飽きずしつこく抱き続けてきた気持ちも。

 夜、ベッドの中から、二人きりの食事に了承するメールを送った。不要なはずの後ろめたさは、過去の自分を裏切ったような、そんなおかしな感情だった。予報は外れてこの町に雨は訪れないようだった。ただ遠くの空から雷鳴が轟く。それはあまりに遠すぎて胸を騒がせない。夜通し鳴り続けようときっと眠れる。手の届かない光のようなものだった。





 彼と再会したのは数日後のことだった。
 日曜日だった。SNSに、「買い物終了! 今から帰宅ですが表参道駅で荷物が重いです(*^^)v」、そんな書き込みをした後だった。最寄駅のホームにヒカルがいた。
「よっ」
「…ヒカル」
「久しぶりー。俺も出かけててさ。さっき日記見たから、もうここ通る時間かなって」
「あ。あ、そか。日記か」
 驚いた。電車を待つ間に何気なく書いた二行の日記に、リアルタイムで反応してもらえるとは思わなかった。
「持つよ」
「ええっ」
 紙袋を奪われさらに驚いた。どこの色男ですかと内心突っ込む。
「最近どうよ」
 女友達から出たセリフであるなら、レンアイ関係を聞かれているのが確定だけれど、きっとこの人の言葉にそんな意味はない。「普通普通、地道に生きてるよー」 そう笑った。
「そっか。毎日仕事お疲れ様」
「別に、たいしたことしてないし」
 日が落ちた住宅街、駅からの道を連れだって歩いた。本当に久しぶりだった。きっとこの人は、と、また心の中で繰り返した。きっととか、多分とか、想像するしかない胸の内。この人とか、あの人とか、まるで隣にいないみたいな三人称。

 きっとこの人は、私が平凡な人生を送っていることを確認して安心するのだ。

 そんなちっぽけな醜い気持ちで呟いた。
「……月、綺麗だね」
 大昔の翻訳のような言葉を呟いた。いつもこの季節、毎年この時期、空を見上げては明るく輝く衛星が九月を思い起こさせる。それが誰かの誕生月だって。
「ん? ああそうだな。でもちょっと暗い。降るかな」
「どうだろう。あっちの方は大分雲が厚いけど」
 意図したわけでもないが、会話のボリュームは徐々に小さく、まるで人目を忍ぶ恋人のように、ぼそぼそと話をした。
「…最近頑張ってるね。棋聖リーグとか、凄いんだよね」
「凄くないよ。塔矢は名人だし、伊角さんはその挑戦者だし」
 それでも十分凄いよ、と言おうとして自重した。街灯のおぼろな明かりの中で、ヒカルの顔がひどく苦しそうだったからだ。懐かしい衝動が漣のように揺るやかに、小さな胸を満たした。
 私はこの人のために何ができるのだろう、と。
「…大変なんだ?」
「大変……かな。…うん、だな。一勝するのも大変だ」
 自分の知らない世界でたくさんの人と出会いたくさんを知り、背が伸びて大人になった。
 そんな進藤ヒカルの、自分はファンの一人なのだろうか?

 違う。

 違う。
 それは違う、ただの一ファンなら、私はこの人を心の底から応援できるだろう。
 隣を歩く今、ただ胸ときめかせ、大人びた横顔と碁にかける情熱を知り、すこんと恋に落ちることができるだろう。

(できないよ)

 いっそ負ければいいとすら思っている。これ以上手の届かない場所に行かないでほしいと思っている。
 惚れ直すことができたとして、もう一度恋の始まりを知ることはないだろう。




 遠くだけを照らす稲光が、空の向こうに見えた。ああもどかしい。落ちるなら落ちればいい。月なんか敵わないほどの瞬間の閃光でこの心を射抜き照らすがいい。





 知ればいい。

 私はこの人をずっとずっと好きでいる。



「月が綺麗ね」
「ああ、俺もそう思う。一局打とうか」
「今から?」
「うん、駄目かな」
「いいよ」

 自分でも驚くほどの穏やかさで微笑んで首肯した。
 囲碁は自分から彼を奪うものではなく、今繋ぐものだった。
 そういえばずっと以前、大一番の前に打ってくれたことがあった。
 ピリピリした気持ちを落ち着かせるためにと。
 嬉しかった。

 あなたにとっては何でもないことでも、私はそのとき舞い上がらんばかりに、あなたのただ一人の特別だったよ。


 そしてきっと今も。
 この格別に月が綺麗な夜、大切な一年に一度の記念日、

「ねぇ、ヒカル」
「んー?」

 あなたはいた。あなたはいる。今手を伸ばせば届く、すぐ近くの私の嵐だ。



「誕生日おめでとう」